家計経済研究 創刊号 19889 pp.32-39

家計原理と家族 
−なぜ生計を共にするのか−

                                                                             坂井 素思

 

1.はじめに−家計組織化の問題

 

 Home(家庭)の古英語にあたるHamという言葉には、二つの河が合流してできた三角地帯、そしてそこに造られた自然の要塞、という意味があるといわれている(1)。二つの力のバランスのうえに、家なるものが存在しているということになろうか。あるいはまた、家庭というものが固定的な避難所というイメージを持つと同時に、もう一方において、流動的な力のバランスのうえに成立しているというイメージを伝えていると解釈できようか。この語源の真偽はともかくとしても、この固定的な三角地帯と流動的な河が、どのようなことを意味しているのか。このことは家計的なるものにとって、大変意味深長な比喩であると思われる。

 今日、家計・世帯・家庭・家族などの言葉には、互いに合流し重なる部分と、微妙に分岐し異なる部分とが存在するために、それぞれの意味の境界がいささか曖昧になってきている(2)。このような傾向は、たとえば文化人類学などで使われて来た家内集団(domestic group)という一般的な名称が、最近になって多用されるようになってきたことにもあらわれている。家計なるものが、親族関係によって影響を受けるのか、あるいは同居集団によって影響を受けるのか、それともさまざまな経済的機能の単位として影響を受けるのか、それぞれの場合に、言葉を使い分けなければならない。しかし、使い分けたとしても、そのとおりに読者が受け取るのか、その保証はない。このため、すべての意味を含む一般的な言葉として、家内集団という言葉が便宜的に使われているのである。家計という言葉にも同様の事情が存在する。家族人類学のM・セガレーヌにしたがえば、英語のhouseholdという言葉には、住居をともにする集団という意味と、消費生活をともにする集団という意味の両方が含まれているとされる(3)。ここでは、暫定的に家族を親族関係をあらわす言葉、家計を生計を共にする組織をあらわす言葉と考えることにする。この定義の違いを理解するならば、家族だから常に生計を共にしていなければ成立しないという説明は、まずはじめから当を得ていないことになる。なぜならば、それでは家族とはどの範囲の親族関係を言うのかということになるからである。つまり、家族であれば、必ず生計を共にするかといえば、そうではないからである。

 さて、このような混乱した状況は存在するのであるが、この小論で試みたいことは、このような家計という言葉につきまとう小異を振り落して、家計のエッセンスとでもいうべきものを抽出したいということである。そしてもしできるならば、このような家計と、それから家族の変化と言われているような事態とがどのような関係にあるのか、ということにも言及してみたいと思う。

 家計原理とは、ここでは、なぜ人々は生計を共にするのか、ということである。つまり、家計の組織原理(organizing principles)とでもいうべきものを問いたいと思う。このような組織原理を問うことには、たとえ歴史的方法によったとしても、あるいは機能的方法にしたがったとしても、制度成立の基を問うという大変困難な問題がつきまとっているために、これまで文化人類学や経済人類学などの一部を除いたところでは、経済学一般ではもとより家庭経済学の分野でも、ほとんど問われたことがなかったといってよいだろう(4)。もちろん、家計原理といっても、いろいろな視点がありうるわけであるから、たとえば家計構造がどのようなものか、あるいは家計機能にはどのような働きがあるかなどという点についてみれば、限定的なかたちではあるが、全く問われてこなかったというわけではない。そして、家計とは家庭のもつ経済的機能であるという一面的な定義をもし受け入れるならば、これらの経済的特徴を挙げていけば、それは限られたものであるとはいえ、確かに家計の経済的活動の一部を写し取っていることにはなるであろう。あるいは、家計の消費活動の一部を垣間みて、エンゲル係数がどの程度である、というような議論もまた、家計の定常的な原理の一部を確実に反映しているとすれば、あながち無駄な作業であるとは言えないであろう。

 また、このような組織原理を問うことは、あまりに自明な問題意識であると言う人もあるいはいるかもしれない。なぜなら、家計は理念から生じた産物などではなく、現にそこに存在している日常的な実体であるともいえるからである。存在している状態から議論を出発させればよいのであって、どのように組織化されたかなどということは問わなくてもよい、とも言えるかもしれない。さらにまた、このような組織化という問い自体、今日ではもはや的外れな問題意識であると考える人もいるかもしれない。それというのも、今日の状況はといえば、生計を共にするどころではなく、むしろ家計は個別に分岐し、家族としてのまとまりは解体しつつあると考える人が、見識者のなかでも余程多くなりつつあるといえるからである。

 しかしながら、状況はこのようなものであったとしても、家計組織というものが危機にあるといわれているからこそ、かえってなぜ家計が組織化されるのかということが問われる必要があるといえる。家計原理というからには、なぜ組織化されないのかという点についても説明する力を有しているものでなければならないからである。家計が組織化されるのか、あるいは組織化されないのかというのは、いわばコインの表裏のようなものである。というのも、組織化された家計の残りが、組織化されないものとなるのであるから、片方の原理を説明すれば、もう片方も説明されたことになるからである。組織化されるものを説明することは、同時になぜ組織化されないということが起こらないのかを説明していることである。要するに、このような家計の組織化は、現在のところ、文化人類学のC・レヴィ=ストロースの言葉にしたがっていえば、「永遠不変の必然性に呼応するよりは、むしろ、極限状況における不安定な平衡状態に対応している」といえるぐらい困難な状況に置かれているのである(5)。したがって、この家計の危ういバランスをかろうじて維持しているのは、固定的で不動の構造のようなものであると考えるのも正しくなく、また全く流動的で正体のない状況のようなものであると考えるのも正しくないといえよう。

 

2. プーリングという家計原理

  

 なぜ家計という、生計を共にする組織が存在するのであろうか。この組織原理のひとつとして、経済人類学のM・サーリンズは、プーリング(Pooling)という家計特有の分配様式を挙げている(6)。このプールという言葉は、水たまりを意味するプールと同じ綴りではあるが、語源が異なる言葉であり、共同出資あるいは共託という意味に使われる言葉である。

 家計の消費活動をみると、各家族員は役割に応じて個別に消費決定を行っているようにみえる。これは、家計という集団にとってはむしろ分散的な傾向を持った活動であるといえよう。現代の家計は、経済学者によって消費単位として位置付けられているが、このような状況のもとでこの定義にしたがえば、家計は組織である必要は全くないといえよう。それでは、家計が集団として確認されるのは、どのような場合なのであろうか。結論を先に言うならば、それは、生計を共に営むうえで、その土台となるような共同基金(common fund)がひとつのところに集中させられるときであると考えられる。家計の構成員が財貨・サーヴィスを互いに持ち寄り、寄託するという行為のなかに、共同性の発揮をみることができる。実際には、ひとつの財布のもとに、必ずしも共託が行われることがなくとも、その分配方式が 合意のもとに定められていれば、それは実質的には共同の意志のもとにおけるプーリングであると考えられる。このプーリングの存在によって、ひとつの家計組織が構成されていると考えることができるのである。

  このようなプーリングという仕組自体、取り立てて珍しい考え方であるというわけではない。今日の経済社会では、家計に限らず、随所にみることができる機構である。たとえば、今日最も典型的に取り入れられている分野は、保険である。とりわけ損害保険・生命保険などでは、保険料という形態で共同出資が行われ、この拠出金を基にして、危険を被った人々に対して保障を行うという仕組をとっている。被保険者が不慮の災害、事故などに遭った場合には、個人では回復不可能な危険を多くの人々に分散させて、この金銭的な共同によって、参加者の安全と安定を確保しようとするものである。

 しかし、家計のプーリングと保険のプーリングには機構上の相違が存在する。保険の場合には、被保険者がプーリングに対して支払う保険料は、本人の危険にほぼ見合った額になっている。つまり、危険を引き受けてもらった対価として、保険料を支払うのであるから、ギブ・アンド・テイクの収支はその度ごとに損得ほぼ同等であるといってよい。けれども、これに対して家計のプーリングの場合には、必ずしも同等ではない。家計の構成員はそれぞれの財貨・サーヴィスを提供し共同基金を形成するが、彼らは拠出した額に応じて、便益を受けるわけではない。サーリンズも指摘しているように、そこでは「各人はその能力に応じ、各人はその必要に応じて」家計に参加していると考えることもできる(7)

 このような家計のプーリングは、R・ネッティング達が言うように、家計内における互酬性(reciprocity)という関係をあらわしていると考えることも可能である(8)。この互酬性という言葉の分類には、論者によってさまざまなものが存在するが、ここではサーリンズのものとの対応を考えたい(9)。彼に従えば、保険のプーリングに相当する互酬性は、いわゆる「均衡のとれた互酬性(balanced reciprocity)」に対応し、家計のプーリングに相当する互酬性は、いわゆる「一般化された互酬性(generalized reciprocity)」に対応する。均衡のとれた互酬性というのは、一般的な意味での交換のことであり、渡したものと等価のものを直ちに受けとる関係にある。これに対して、一般化された互酬性というのは、返礼を期待しない一方向的な贈与のことである。贈与の行われるその場、その時に返礼を受けとらないために、かえって交換関係のようなその場限りの関係に終らないものとなる。一般化された互酬性のもとで、贈与を受けたものは、将来最終的な返礼を行う義務を背負ったということになる。このために、このような関係は、家計内の親子関係のように最も親密なあるいは近接した関係になる可能性が大きいのである。

  しかしながら、このようにして家計でプーリングという機構が観察されたとしても、それではそこにどのような組織上の意味が見出せるというのだろうか。この点を確認しておく必要があろう。端的にいって、それはこのプーリングによって、家計全体の組織的凝集性が高められるという点に注目すべきであろう。プーリングヘの参加範囲によって、家内的連環の輪の限界が明らかになり、ここに閉じられた集団が形成されることになるのである。この結果、サーリンズの言葉にしたがえば、「プーリングは、全体の凝集性をたかめるために、各部分の差異を廃棄してしまう」ような働きを持っていることになる(10)。ひとつのプーリングに参加しているか、あるいはその恩恵を受けているかによって、その家計に帰属しているかが判断されることになるし、また、プーリングによって、ひとつの集団としての家計は、他の家計から識別されることになるのである。

  このようにして、家計の凝集性をたかめるメリットはどこにあるのだろうか。プーリングという共同性の発揮によって、家計にどのような制度上の利点が加わるのであろうか。次のように、考えてみることもできるかもしれない。個人あるいは小規模の家族員では維持できないような家計であっても、寄り集まってより大きな規模になれば、たとえ貧困な経済にあっても生活の維持が可能な場合がある。つまり、プーリングが相互扶助として機能する場合である。この場合には、おそらく家計の構成員がどのくらいの規模で所得を得ているのかということに、大きく依存していると思われる。たとえば、歴史上みられるように、産業社会初期の労働者家庭では、貧しかったがゆえにかえって産業社会以前よりも大家族に依存する傾向も存在しており、さらに産業化が進んで賃金所得水準が上昇するに従って、小規模家族になっていったという事態もある(11)。この事例は、産業化と家族規模との関係が単純なものではないことを示しているが、しかし、プーリングという機構がそこに働いていたことが理解されれば、明解に説明がつく例であるといえる。

 

3. 家内的分業

 

  家計組織を成立させている原理として、もうひとつ有力な考え方が存在する。それは、家計を広い意味において、生産(production)の単位であると考えるものである。もちろん、今日のような産業社会では、商品に関しては、専門分化した企業がその生産を担っていることは確かである。しかし、この生産という意味をサーヴィス生産にまで拡げるならば、単に物的な商品生産ばかりでなく、家計内で財に価値を付け加えたり、新たなサーヴィス価値を生み出したりするような活動も生産活動に含まれることになる。今日の家計でも、たとえば家事労働のなかに、このような生産活動をみることは容易であろう。ただここで問題とすべきなのは、なぜ家計を生産の単位として解釈するのか、という点である。果して生産という視点で、企業と異なるような、家計組織独特な役割が存在するのだろうか。

 日本の研究者からは賛同を得られなかったけれども、経済学者のG・ベッカーがかつて引用した言葉に、家計は「小さな工場」であるというものがある(12)。この言葉に、家計を生産単位として考える論者の一方の側の考え方があらわれている。つまり、家計というのも人間が寄り集って造られた組織なのであるから、その組織化の目的にしたがって、財とサーヴィスが効率よく結合させられなければならないとされる。べッカーによれば、家計組織の目的とは、限られた費用のもとで、最大の便益を生産することであると考えられている。たとえば、主婦がハンバーグという料理を作る場合に、肉や玉葱を購入してきて、刻んだり捏ねたり焼いたりする「生産工程」を経るが、これらは素材と労働力が適切に結合された結果、最も満足のできる料理となるのである。料理に限らず、他の家事や家庭管理に至るまで、この考え方を敷衍できると考えられている。このようにして、家計を工場と同一視する考え方では、結局のところ効率性という基準にしたがって、家計は組織化されているという論理が大勢を占めているといってもまちがいはないことになる。しかしながら、その後のベッカーらの議論の展開をみていると、このような合理的な家計という虚構は、家計像を効率性という視点からみるあまり、一面的な把握に止めてしまっているように思われる。この論理を徹底していくならば、家計と企業を隔てる論理は全くなくなってしまい、両者は単に製造しているモノが違うだけであるという議論に陥ってしまうことになる。

 家計組織を生産単位としてみる考え方に、もうひとつの方向がある。家計組織が生産を行う点は積極的に認めるのであるが、ただしその生産の性格は効率が良いところにあるのではないとするものである。そして、むしろ大変非効率である点で家計生産の行われる意味があるとするものである。農業経済学者A・チャヤーノフは、小農の家内経済を統計的に観察した結果、家計の「生産強度は、生産能力と反比例の関係にある」と考えたが、このことはまさに前述の状態をあらわしていることになる(13)。労働能力を利用せずに人員を余らせている家計ほど、その人々を養うために働く人の労働強度は厳しくなる。いいかえると、家計のなかで働く人の割合が相対的に少ない家計ほど、生活水準を維持するためには、働く人はそれだけ多く働かなければならないということである。逆に、働く人の割合が多い家計ほど、その労働者一人当りの労働量は少なく保つことができるというものである。要するに、家計内では、労働力の多い場合でも少ない場合でも、その能力をすべて使い尽すような事例は、統計上すくないということである。チャヤーノフのいう家内経済では、生計が営まれるときに「最大限に効率のよい世帯」に基準が合わせられるのではなく、むしろある程度の労働力が常に家計内に潜在させられるような傾向が多くみられる。サーリンズの言葉によれば、家内経済というものは、本来的に過少生産(underproduction)の状態に置かれる性質をみせるとされる。

 それでは、なぜ家計内では労働力を余らせておく、すなわち労働スラック(slack)を抱えている必要があるのだろうか。この疑問に対して間接的に答えていると思われるのが、パステルナークらによる、いわゆる「両立不可能仮説(incompatiblehypothesis)」と呼ばれるものである(14)。彼らによれば、家計の構成員のひとりが、もし両立不可能な二つ以上の労働を継続して担当しなければならない状況に陥ったときには、他の構成員の助けを借りなければならないが、そこでもしこれまでの家族人数で足りない場合には、家族規模を拡大しなければならないことになる、というものである。たとえば、両立不可能な労働とは、子供の世話と家外労働、あるいは職種の異なる労働同士などである。このような事態に備えようとすれば、常に家計内に労働スラックを抱える状況、つまりは家族規模を拡大するような状況が、家計でみられることになる(15)

また、家計内で行われる労働の性質からみて、労働スラックが必要である場合もある。たとえば、冠婚葬祭などの行事には、同時点に集中して家事労働が発生する。あるいは、育児のように、多様な世話が継続して必要となる場合もある。このようにして、家計内の時間割当(Scheduling)を考えて、多様な仕事が同時に発生する可能性のある家計ほど、それに備えて、必要以上に多くの労働力を家計内に留めておかなければならないのである(16)。その結果、このような家計では、家計の構成員の範囲も拡大することになるのである。このことから類推できることは、今日のように少人数化しつつある現代の家計というのは、詰まるところ、さまざまな労働節約を行ったために、多種の労働を必要としない、そしてまた労働集約的でないように組織化されつつある家計になってきたということになろう。

家計組織が非効率な生産単位である、ということを積極的に考える議論のもうひとつの系譜は、企業にみられる分業と、家計内にみられる分業との相違を指摘するものである(17)。家計内でみられる性別分業、あるいは別の側面からみれば男女協働は、家事の分担や稼得の分担などに発揮されるような組織原理である。しかし、この家計内分業は、工場内分業や社会的分業でみられるものとは、決定的な点で異なると考えられる。端的にいって、企業でみられる分業の主たる原因は、技術的な意味における専門化であるのに対して、家計内分業の主たる原因は、技術的なものではなく、むしろ相補的でかつ慣行的な協同に基づくものである。

 もちろん、家計のなかには、家内工業や自営業などのように営利的な組織も含まれる場合もあるために、このようなときには、技術的な専門分化によって、家計内分業が行われる場合も存在する。したがって、家計の性格によっては、双方の境界は明らかではなくなるかもしれない。しかしながら、家計内で原初的に存在するような男女分業は、決して技術的な意味にだけ還元して考えられるようなものではない。むしろ、家計内の多様な労働を分担処理するような、慣行的で、しかも技術的な意味では非効率なものであるといえる(18)。もし家計内の多様な仕事をすべて企業組織あるいは協同組織の分業体制に委せたならば、あまりに専門が多岐にわたるために、または、専門的ではないが仕事の種類が多いために、巨大な分業組織と膨大な費用を引受けなければならないであろう(19)。このことからすれば、分担上の不公平が生じる可能性は内包されるものの、家計は非効率的な組織ではあるが、多様で同時的な仕事分担については決して有効な組織ではないとは言えないのである。

 

4. 家内性と家外性

 

 家計の組織原理を家族の形成、とりわけ生殖(reproduction)に求める考え方は、今日でも最も正統的なものとして認められている。たとえば、一九七〇年代に流行した「新家庭経済学」のなかでも、人的資本としての子どもの価値が重要視されたし(20)、正統的社会学のパーソンズにあっても、子どもの社会化と夫婦関係の安定が家族の働きのなかで最も比重の高いものとして位置付けられていた(21)。少し時代を遡れば、文化人類学のマリノフスキーが、「人々を結びつけて、恒久的な集団を作るにいたらしめる一般原理」の第一のものに、「生殖、すなわち夫婦親子の関係」を挙げているのをみることができる(22)。そして、マリノフスキーにしたがえば、この集団はこのような生物学的な決定要因によって第一次的に組織化され、さらに富の所有、消費、生産などの活動によって経済的に基礎付けられると考えられた。つまり、親族関係である家族が集団としてまず存在し、その家族を扶養し、維持・発展させる過程で家計が組織化されるとするのである。集団の成立を機能主義的に解釈しようとするマリノフスキーの考え方が最も典型的にあらわれているところであると思われる。

 いずれにしても、これらの議論は、生物学的な要因によって成立する家族集団を維持するために、この閉じられた集団で内部的な要因によって組織化が行われる組織を家計と考えていることになる。このような家計の組織原理の性格を、家内性(domesticity)という言葉であらわすことができるかもしれない(23)。この言葉の使い方は、各論者によって少しずつ異なるが、共通している点は、いずれも家内的に閉じられた集団に対して求心的な性格を意味しているということである。そもそも、この家内性という意味のドメスティシティの語源は、日本語の場合とほぼ同様に、丸屋根の家、すなわちドーム(dome)に由来している。ドームのなかに収まりのつくこと、これが家内性ということの意味になると考えられる。

 このように考えてくると、従来から考えられてきた家計の組織原理というものは、ほぼこの家内性という視点から考えられてきたものが多かったといえよう。ここで取り上げて来たプーリングと家計内分業についても、ほぼ同様である。前述したように、プーリングとは、家内的互酬性のことであったし、また家計内分業というのも家内的な凝集性の基礎のうえに考えられたものであった。

 これらに対して、ここではいわば家外性とでも言うべき組織原理の視点が存在することを指摘しておきたい。家計において、生計が共に営まれるのは、必ずしも家内的要請のみによるわけではない。家外的な要請にしたがう場合も存在するのである。あるいは、家外的要請があるからこそ、家内性の意義も発揮されると考えることができる。

 家計というものは、常に何かを外に放り出すと同時に、外から何かを受け入れていると考えられる。このことによって、家計は社会的な相互依存関係のなかに存在するのである。少し文脈は異なるが、この立場を家族という親族・姻族関係のレベルで積極的に主張したのは、周知のようにレヴィ=ストロースである(24)。彼によれば、家族成立を生殖などの生物学的自然要因のみによって説明するには無理があるとする。そして、近親婚の禁止という文化要因のなかに、家族の決定的な形成規則をみるのである。というのも、近親婚禁止という文化規則は、「家族間でなら結婚できるが、同じ家族内では結婚できない」ということを示しており、このために、家族間の相互依存関係が生じ、その結果として社会的なコミュニケーションが維持されるからである。つまり、生殖が家族を発生させるのではなく、家族の発生が生殖を可能にするのである。そして、このような家族が発生するためには、「まず二つの家族が存在し、一方が男を、他方が女を供給して結婚が成立し、ここに第三の家族生活が始まる」という事態が必要なのであると考える。したがって、結局のところ社会のコミュニケーションがあって、はじめてひとつの家族が存在することになるのである。

 レヴィ=ストロースは、ほかのところで、このような社会的コミュニケーションには三つの体系があるといっている(25)。それらは、女性、財貨・労働力、そしてメッセージの交換体系である。つまり、集団が配分を調整するのは、女性についてだけではなく、社会にとって稀少な他の財についても行っているのである(26)。ここで単純化を恐れずに対応関係をみるならば、家族関係が女性の交換体系にあたるのに対して、「家計」関係は財貨・労働力の交換体系に主として相当することになるであろう。したがって、近親婚禁止によって、家族間の相互依存関係が成立し、社会が安定していると全く同様にして、家計は原初的にみれば自給自足(Autarkie)を「禁止」し、社会的分業を受け入れることによって、財・サーヴィスの社会的依存関係を確立していると考えることができる。つまり、財・サーヴィスによる社会的コミュニケーションを維持するために、生計を共にする家計を組織化する理由が存在すると考えることができるのである。マリノフスキーの文脈に従えば、子どもを扶養するために家計が組織されると考えられるが、これに対して、レヴィ=ストロースの文脈に従えば、社会的コミュニケーションを維持するために、家計が組織されると考えられるのである。

 ここまで議論が進めば、家計にとっての貨幣というもののひとつの意味が明らかになるであろう(27)。貨幣が流通するということは、とりもなおさず社会の貨幣交換体系が存在するということであり、このことは結局のところ家計における自給自足を「禁止」する、すなわち、交換を義務付けるということを基礎にしているといえるのである。家計には、原初的な段階から交換ということが内包されていたと解釈すべきなのであろう。もっとも、今日の貨幣経済を未開社会のクラ交換と同列に置くならば、たとえ双方ともに家計の組織原理の一部を反映しているとはいえ、あまりにかけ離れた同類項である、と言わざるをえないであろう。それというのも、今日の家計間でみられる貨幣的コミュニケーションは、あまりに家外性の強い、ひとつの極限状況を示していると思われるからである。

 

5. おわりに−なぜ生計を共にするのか

 

 この小論では、なぜ人々は生計を共にするのかという意味での、家計の組織原理について、いくつかの文脈に沿って解釈を行ってきた。それらを挙げるならば、プーリング、家内的分業、社会的コミュニケーションなどである。これらの組織化の規則が存在していることが、家計成立のためにはほぼ絶対的に必要であると言えるのではないかと思う。

 少し俯瞰するならば、家計あるいは家計の置かれている世界全体は、互酬性の体系を反映していると一言でいったとしても、あながち見当外れであるとはいえないであろう。というのも、プーリングは前述のように、家計内で見られる「一般化された互酬性」と考えられるし、家内的分業は原初的には男女間の互酬的関係のことであると解釈できるし、そして社会的コミュニケーションとは家外的な、あるいは家計間の互酬性であるとみることができるからである。

 しかしながら、過度の抽象を行うことは、ここでは慎しむべきであろう。ひとつの抽象にすべてのものを還元することは、それぞれの意味を希薄にしてしまう場合も存在するからである。ここで強調しておきたいことは、家計をめぐる互酬性であっても、もう一段下のレベルでは意味の相違が存在する、ということである。そこでは、前節でみたように、家内性の強い互酬性と、家外性の強い互酬性とが存在し、そして、後者が成立するためには前者の存在が必要であり、また逆に、前者が成立するためには後者の存在が必要なのである。さらに、同じ家内的互酬性について比較した場合にも、そこにプーリングと家内的分業との間の相違をみることが可能である。このようにして、家計をめぐって同じく互酬性という形態をとるわけであるが、どのようにして組織化されるのかという点において、その意味が異なってくるのである。この小論で特別に意を注いだ点もここにある。

 人間の制度というものは、個人と社会を結ぶ媒介である。ひとつの比喩が許されるならば、制度とは、身体の器官を分け隔てている膜のようなものである。この膜は各器官の内側のものを外側から保護する役目を持つと同時に、内側から外側への膨張を防いでいる役目も持っているのである。このような意味でこの膜の役目、あるいは便益は内側と外側にとって両義的なものであるといえる。このため、制度を含む内外の変化を認識し語る場合にも、一方的なあるいは一面的な見方にならないように留意することが大切である。たとえば、外側に変化が生じた場合、内側はその変化に対して防衛する機能を発揮し反発する場合もあれば、逆に内側がその変化に対して適応していく場合もあるからである。どちらの結果になるかは一概には言うことができないが、おそらく双方を隔てている膜の性格に大きく依存するのではないだろうか。

このようにみると、家計の果している役割というものも、まさにこの膜のようなものにちがいないといえる。そして、ここでみてきたように、現代の家計というのは、家内性と家外性という二つの力をめぐるバランスの上にかろうじて平衡状態を見出している、危ういがしかし厳として存在している制度であるといえるのではないだろうか。

 

参考文献と注

(1)   Steinbeck, J., America and Americans, Viking Press, 1966, 邦訳サイマル出版会, p.45

(2)   Yanagisako, Sylvia J., “Family and Household: The Analysis of Domestic Groups”,

Annual Review of Anthropology, No.8 1979, p.162

   Heasman, Kathleen, Home, Family and Community, George Allen & Unwin, 1978, P.9

(3)   Segalen, M., Sociologie De La Famille, Librairie Armand Colin, 1981, 邦訳新評論、P.53

(4)   端信行『文化としての経済』ダイヤモンド社, 1986, P.83

WilkR. R., R. M. Netting, “Households: Changing Forms and Functions”, in Netting, R. M., et al, eds., Households: comparative and historical studies of the domestic group, Univ. of California Press, 1984, pp.128

(5) Lévi-Strauss, C., “The Family”, in Shapiro, H. (ed), Man Culture and Society, Oxford

1956, 邦訳誠信書房, P.15

(6)   Shahlins, M., Stone Age Economics, Aldine Publishing Co. 1972, 邦訳法政大学出版会,P.112

(7)   Sahlins, op. cit., P.113

(8)   Wilk, op. cit., p.9

(9)   Sahlins, op. cit., PP.230236

(10) Sahlins, op., cit., P.113

(11) Wrigley, E. A., “Reflections on the History of the Family”, Daedalus 106, 1977, P.81

    Medick, H., “The Proto-Industrial Family Economy: the structural function of household and family during the transition form peasant society to industrial capitalism”, Social History, 3, 1976, P.308

(12) Becker, G., An Economic Approach to the Human Behavior, Chicago U. P., 1976, P.92

    Berk, R. A. and S. F. Berk, Labor and Leisure at Home, Sage Publications, 1979, P.28

(13) Chayanov, A. V., The Theory of Peasant Economy, AEA, 1966, English translation,邦訳大明堂

  Sahlins, op. cit., P.109

(14) Pasternak, B. C., C. Ember and M. Ember, “On the Conditions Favoring Extended Family Households.” Journal of Anthropological Research 32, 1976, PP.109124

(15) 総理府統計局、『我が国の世帯構成とその変動』、日本統計協会, 1984, P.50 日本の共働き世帯の割合は、夫婦が親と同居している世帯で高く、未就学児のいる世帯で低い。

(16) Brunner, O., Neue Wege Der Verfassungs and Sozialgeschichte Vanderhoech & Ruprecht, 1968, 邦訳岩波書店, P.153

(17) Dex, S., The Sexual Division of Work, Wheatsheaf Books, 1985, P.107

    西部邁「エムプティ・サービィス−奉仕し礼拝できる価値の喪失−」

  『幻像としての保守へ』1985, 文藝春秋

  上野千鶴子『資本制と家事労働』、海鳴社, 1985, P.25

(18) 上野千鶴子編『主婦論争を読むT・U』勁草書房, 1982

(19) Hayden, D., The Grand Domestic Revolution, MIT Press, 1981, 邦訳勁草書房、P.288

(20) Schultz, T. W., Economics of the Family, Chicago U, P., 1974

(21) Parsons, T. and R. F. Bales(eds), Family, Socialization and Interaction, Free press, 1955, 邦訳黎明書房, P.3443

(22) Malinowski, B. A Scientific Theory and Other Essays, Univ. of North Carolina Press, 1944, 邦訳岩波書店, P.63

(23) Shorter, E., The Making of the Modern Family, Basic Books, 1975, P.227

    Oakley, A., The Sociology of Housework, Martin Robertson & Company, 1974, 邦訳松籟社, PP.7089

    落合恵美子、「フェミニズム理論における『家内性』と『近代』」『女性学年報』5, P.5

(24) Lévi-Strauss, op. cit., P.12

(25) Lévi-Strauss, C., Anthropologie Structurale, Plon, 1958, 邦訳みすず書房, P.325

(26) Lévi-Strauss, C., Les Structures Élémentaires de La Parente, Mouton, 1947, 邦訳番町書房, P.101

(27) Kopytoff, I., “The Cultural Biography of Things: commoditization as process”, in Appadurai, A., (ed) The Social Life of Things: commodities in cultural perspective, Cambridge U.P. 1986, P.69 

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