|
|
||
| 季刊家計経済研究 1995年10月1日pp.54-62
「価格破壊」現象と大衆消費社会 ― 価格現象とブランド消費の制度分析 ― 坂井 素思 はじめに 消費社会とは、人びとを消費によって結びつける社会であるといわれている。もしそうであるならば、近年日本社会に現われた「価格破壊」とよばれている現象も、このような人びとを結びつける形態において、現代の消費社会を象徴的に表わしているといえるかもしれない。この現象が一巡した現在、ここでどのような人びとの結びつきが生じたのか、少し冷静に振り返ってみる必要があると思われる。 ここ2〜3年の「価格破壊」現象のなかで、あるスーパーマーケット・チェーンが輸入ビールを通常の国産品価格の半額以下で売り出したことがある。もしこれだけのことなら、近年あまり珍しいことではない。ところが、この新聞広告のなかで、これらビールの製造保証書のようなものが同時に掲載されるという、前代未聞のことがおこった。もちろん、宣伝レトリックの問題だ、と考えてしまえば、世の中にはもっとセンセーショナルな広告があるのだから、それほど目くじらを立てることではないかもしれない。あるいは、まさかとは思われるが、あまりに安いので品質を疑う消費者が出るのではないか、と担当者が考えたとすれば、それは広告に対する販売者の過信の現われであるし、また消費者へのあまりの侮りであると思われる。この広告に実質的な意味がこめられていたにしろ、宣伝効果を単にねらったものにしろ、どちらにしても、このことは今回の「価格破壊」現象をみるうえで、ひとつの重要なヒントを与えているように思われる。 価格破壊現象を論じたある本の帯に「安いだけじゃ売れません」という宣伝文句が掲げられていたが、「価格破壊」現象は、価格という文字が使われているにもかかわらず、単に価格だけの現象にとどまらない意味を含んでいるのではないだろうか。 価格破壊現象の起源 マスコミで伝えられていることを総合すると、価格破壊現象とは、ある特定の商品群でこれまで考えることができなかったような低価格のものが売られるようになった近年の現象のことである(l)。この現象の特徴をみるには、この現象がいつごろから生じたのかを考察するとよくわかる。この点については、いくつかの説があるが、これらの違いのなかに、何が価格を破壊した原因なのか、ということが象徴的に現われている。つまり、価格破壊の原因が何であるかによって、この現象の起源というものの解釈も異なるものとなる。 第1に、価格破壊は今回の不況が原因でおこった、と思い込んでいる人は意外に多い。つまり、価格破壊は1991年頃から始まった不景気に起源があるとする、デフレ原因説である(2)。不況でモノが売れないから、価格が下がり、さらに賃金が伸び悩んでいるので、個人需要が停滞し、価格低下に拍車をかけている、と考える。消費者の問に「低価格志向」が進んでいる、というような表現で説明されるものも、この説に加担するものである。価格形成について、需要要因が重要だと考える一つのタイプである。 おそらく、今回の価格破壊現象がおこった背景に、このような不況の影響力が存在したことは否めない事実と思われる。そうでなければ価格破壊がこれほど広範囲な現象としては現われることはなかったといってよい。例えば、近年不況になってから報告されている、ホテル宿泊料にみられる低価格化、あるいは外食産業などでみられる低料金化などはかなりの部分が、需要不足から生じた「価格破壊」であるといえよう(3)。 けれども、もしデフレだけが原因ならば、これまで歴史上何回となく繰り返されてきたデフレは、なぜ価格破壊とよばれなかったのか、という疑問が残ることになる。今回の不況以上に激しかったデフレ現象は、過去にいくらでもみつけることができる。今回の不況が、現在もあるいはまた今後しばらく、物価全般にわたって均等に、深刻な影響を与えるかもしれない、という可能性はまったく否定してしまうわけにはいかないものの、価格破壊現象が生じた今回の特定的な事情を、デフレ説のみでは説明できないことは後でも述べるように明らかなことである。 第2に、供給側あるいは販売者側の原因を重視するものとして、「流通革命」が考えられる。おそらく、価格破壊という言葉の発生に、その起源を求めるならば、この説はかなり有力な考え方であるといえる。1950年代から1960年代にかけて、スーパーマーケットが流通業のなかに位置を占めるようになるが、この過程でメーカーの希望する価格を守らなかったため、「価格破壊者」とよばれたという話がよく知られている。このことを直接描いたわけではないが、このような事情は、フィクションとして、1969年に週刊誌に連載された、城山三郎の『価格破壊』という小説によって、活字としての「価格破壊」という言葉が世間に流布されることになった(4)。従って、言葉自体は、すでに今から二十数年前には存在していたことになる。 けれども、これら過去の事例がそのまま継続されてきたわけではない。今回の価格破壊現象に直接影響を与えたのはどのような事態であったのかが、ここでやはり問題と思われる。この点でも、流通での販売技術の革新は、価格破壊の有力な原因と考えられる証拠をあげることはできる。今回みられた現象の直接の始まりを探ると、それは1987年の3月に遡ることができる(5)。この時期に、安売りで有名な千葉県の家電小売業が、やはり家電製品安売りのメッカである東京の秋葉原へ進出しようとして、ここの商店街や製品メーカーとの間に摩擦を生じ、撤退を余儀なくされる、という事件がおこった。このとき、マスコミに、「価格破壊者」という言葉が載ったのである。その後、しばらくの間、価格破壊という言葉が問題になるのは、このような家電製品、なかでもオーディオ、ビデオ、コンピュータなどの分野だった。これらの産業分野では、「メーカー希望小売り価格」があって、それと実際売られている価格とには明らかなギャップがあった。ある業者が使って残っている言葉に、「ちょうど家電製品はバナナのたたき売りと同じである」というものがある(6)。生鮮食料品と同様に売り方次第で、どうにでもなるという事態が現われたといえる。ここに、販売技術を発揮する余地があったのである。 しかしながら、これらの動きがさらに広範囲の商品にまで広がるには、もう少し時間がかかることになる。従って、1980年代までの価格破壊に比べ、1990年代の価格破壊現象には、さらに新しい要素が加わってきていると、みることができるかもしれない。 第3に、経済学者J・シュムペーターが革新とよんだものの一つである、「新しい供給源」を開拓して、積極的な価格破壊が企業戦略としてとられるようになったのが、1990年代以降の価格破壊現象である、という考えがある。このことが、やはり今回の価格破壊現象の主要な原因であるとする主張には強いものがある(7)」。ここで「新しい供給源」として活用されたのは、おもに輸入品である。輸入品の内外価格差を利用して、いわゆるプライベート。ブランド商品が、従来より積極的に売られるようになったことが重要であると思われる。このようなブランドは、従来のように製造メーカーではなく、流通業が主導して創造する傾向をもっていた。この考え方に従えば、結局、商品の価格を低下できるのは、製造部門で原価を低下させるか、 それとも販売部門で仕入れ価格を安く出来るかにかかっているが、 ここに輸入品の内外価格差と、それに加えて近年繰り返し起こっている円高の進展を利用することが有利となる理由がある。 ここ二、三年で目立った動きをあげてみるとそれらのほとんどは、 この第三のタイプの原因による価格破壊であることがわかる。たとえば、輸入ビールとならんで、 流通業者の仕入れたプライベート・ブランドのビールが多く売られた。 これらは、国産品では 350ml缶で 225円だが、約 130円ぐらいで流通している。 同様にして、 コーラ、 オレンジジュース、 洗剤、 写真フィルム、 ビデオテープ、 食品加工品など、 いずれも海外に新たな供給源を求めることによって、 大幅な価格低下を実現したものである。 以上のことから考えると、 今回の価格破壊現象は、 長期的には流通上の革新の影響を受け、 近年の不況によるデフレの要素も少なからず内に含んでいるものの、この現象がとりわけ価格破壊と呼ばれる理由は、 やはり第三の理由が大きいと考えられる。 価格破壊現象の特徴 この点を確認するために、 もうすこし今回の価格破壊現象を詳細に検討してみたい。 ここでは、第三のタイプのものに特有の、 いくつかの性質を指摘することができる。 まず、最初に注目できるのは、 今回見られた価格破壊現象はかなり広範囲の分野に散らばっているにもかかわらず、 ある特定の商品に集中してあらわれている現象であるといえる。たとえば、ジュース類全般で価格破壊と呼ばれるような、 極端な価格低下が起こっているわけではなく、ジュースのなかでも、 特定のオレンジジュースというもので価格破壊現象が起こっている、 といった具合である。つまり、限定された特定の商品でのみ、 このような価格破壊が見られるという性質を見ることができる。 したがって、このような特定の商品は、 一部のディスカウント店の商品やバーゲン品として扱われるために、 また扱われる期間も限られているために、 公式の統計に数えられることが少ないものといえる。ひところ、 総務庁の集計する『消費者物価指数』と、 経済企画庁がまとめる『家計調査』の購入価格とのギャップが問題にされたことがあったが、それはこのような今回の価格破壊現象を象徴しているものである(8)。 つまり、価格破壊の起こる商品の種類はあまりに限定的であるために、消費者物価の調査対象からは漏れてしまうのである。 この結果、 輸入物価指数はかなりの低下を示しているにもかかわらず、 消費者物価指数には価格破壊というに値するほどの価格低下はこれまで観察されていないのである。 二番目に注目できる今回の価格破壊現象の特徴は、 一言でいうなら市場構造に複合的な帰結をもたらしている、 といえる。低価格の商品に人気が集まったのは事実だが、けれどもかといって、 高価格の商品がすべて駆逐されてしまったのかと言えば、 かならずしもそうではない。 たとえば、ビール市場に見られたように、 ひとつの種類の商品市場のなかに高価格の国産品市場と低価格の輸入品市場とが、複合的に共存するような特徴を見ることができる。 価格は、 現在でも決定的な意味を持っていることは確かだが、 後で述べるように、 価格以外の要因も今回はかなり重要な役割を演じていたということができる。 三番目に指摘できるのは、 二番目の特徴とも密接に関係することであるが、今回の価格破壊現象のなかで頻繁に、 経済学で言うところの製品差別化(product differentiation) が行われた、 という事実がある。 ここで製品差別化とは、字義どおりであって、同一種類の商品であっても品質、 機能、 販売方法、 デザイン、 ブランド、 評判などの点で違いがあるときには、 あたかも異なる商品であるかのように互いに代替的ではないものとして、消費者に見做されることである。 現代の消費社会を考えると、 安い輸入品をもってきて、 これがそのまま直接売られるために価格破壊現象が起る、 と考えるのは早計かもしれない。もし、 このようなことが直ちに起こるならば、 心配されているに、 輸入品によって国内市場のシェアが奪われ、 国内生産が縮小し、 雇用が縮小するような、 いわゆる産業空洞化という事態が生じることになる。 けれども、問題はそれほど単純ではない。 そこでは、これらの輸入品を活用して、 さらに製品差別化を図ろうとする、 販売の革新ということを考える余地があり、ここでは他の産業の需要が生じる可能性があるからである。 製品の差別化と標準化 今回の価格破壊現象が「製品差別化」と呼ばれる動きである、と考えることについては、異論の存在するのもたしかである。もちろん、定義上は一時的な現象であるにしても、いくつかの市場を観察した結果、そこに高価格の市場と低価格の市場とが非代替的に存在していたのだから、差別化が生じたといってもおかしくはないといえる。けれども、ふつう企業戦略として製品差別化が行われるときには、品質やデザインの向上、ブランドの設定などによって、低価格化が図られることはまれで、むしろ高価格化のほうが図られるのである。ところが、今回の価格破壊現象では、通常とは異なり、実際には低価格化がとられたのである。このことを製品差別化と呼ぶことができるかどうか、という問題がある。そこではむしろ、低価格化が長期的に維持されるならば、人びとはこれらを受け入れることになるのだから、今回の現象は品質・デザインなどの点から見た、「製品の標準化」ではないか、という疑問が提出されることになる。 結局のところ、ある論者によれば、同一種類の商品であるにもかかわらず、高価格商品と低価格商品とのあいだで、代替性のなくなった状態が今回の価格破壊現象にみられるのだから、これは結果として製品差別化現象のひとつである、とされる。けれども、他の論者によれば、低価格化による「差別化」が行われたとしても、最終的には低価格商品と同質のものに人びとの選好は収斂するのだから、これは「標準化」現象と考えるべきである、とされる(9)。ここで最後に問題となるのは、このような低価格化という現象の意味付けである。このような低価格化がなぜ行われるのか、ということが問われているのである。 このことに答えるためには、まずここで今回の価格破壊現象では、差別化と標準化という正反対の解釈が同時に成り立ってしまう状況のあることを率直に認めておきたいと考える。ここを出発点としたい。そして、なぜ解釈が両立するという、このような状況が存在するのかについて、最終的に考えてみたい。 消費者のブランド選好と差別化 今回の価格破壊現象の解釈が、なぜ二つの見解に分かれるのか。このこと自体がここで大変重要な意味を持っていると考えられる。この点を考えるうえで、とりわけ注目すべきはまえに述べたプライベート・ブランドの動きである。なぜなら、このプライベート・ブランドには、前述の差別化と標準化の二つの要素が共存しているとみることができるからである。このことを説明するために、ここですこし基礎的な点に戻って考えておきたい。 今回の価格破壊現象のなかに、この製品差別化という動きの存在することを認めるとするならば、その典型はやはりこれらのブランド(brand) をめぐる販売行動、あるいは購買行動であったと言ってよい。ここでブランドというのは、マーケッティング分野での定義にしたがうならば、「他社製品から自社製品を差別化するための、名称・記号・シンボル・デザインなどの組み合わせ」のことである(10)。ここには、エルメス、グッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級品を売り物にするブランドも含まれるが、これらはブランドのなかでもむしろ特殊例である。「ナショナル」、「ソニー」などに始まり、販売に利用されるプライベート・ ブランドの「セービング」、「無印良品」などにいたる、さまざまな商標も含まれている(11)。 この言葉の語源にあるように、ブランドとは「焼き印」を意味する。消費者のイメージのなかに、焼き印のごとくはっきりと、販売者によって印象づけられているものが、ブランドなのだといえる。マーケッティング用語にしたがえば、ブランドには供給側が行う販売戦略という性格が強い。けれども、企業がおよぼす、ほかの製品差別化行動が示す性格とまったく同じように、ブランド現象は単に供給者側の意図的な販売戦略だけのものではなく、そこに消費者のブランドに対する選好が存在して、はじめて成立する現象であるといえる。たとえ、販売者が高額で高級なイメージの商品を、一方的に売り出したからといって、それだけでブランド現象が成り立つわけではない。消費者の側にその商品を固定的に購入する消費習慣、すなわちブランド・ロイヤルティのようなものが確立しなければ、ブランド現象は最終的に成立したことにはならないであろう。 かつて、 米国経済学者T.ヴェブレンは、 消費者の側に成立する、 かの有名な 「見せびらかしの消費 (conspicuous consumption) 」という消費習慣(12)と対照的に、 企業の側で成立する、 このようなブランドを含むような 「グッドウィル(goodwill)」 と呼ばれる企業の持つ営業権に注目したことがある(13)。 このグッドウィルというのは、ブランド以外にも、商標、特許権、著作権、版権、のれん、取引の評判、固定的な業務関係、資源の既得権益などの営業上の権益を含んでおり、これらを持っていることによって、その企業はほかの企業に比較して、格差利益を得ることが可能になる。たとえば、企業買収が生じるとき、 このような営業権をどの程度持っているかが、その企業の価値を決定する。 そのため、企業経営者は通常の企業収益をあげることと並んで、 つねにこのようなグッドウィルを高めることを経営の指針にしている。 企業にとって、 ブランドを含むグッドウィルを維持することは、 単に販売技術の点で利益を得るだけでなく、 企業価値を高めるという点でもメリットがあるのである。英国では、しばしば赤字の老舗企業が売りに出され、高額な値段で落札されるが、この場合債務を負ってもグッドウィルなどの無形資産の点で、十分なメリットを見込めるのである。 他方、 消費者の側にとっても、 ブランドを選好することには、 いくつかのメリットがあると考えられる。まず、 実質的に考えると、 ブランド商品では品質の保証があらかじめ得られるし、 買物を選択し契約する際の時間を節約することができる。 つまり、これらは、 消費者の取引費用と取引時間を節減する意味がある(14)。けれども、 このような実質的な意味よりも、 よりいっそう効果があると考えられるのは、 むしろブランドの持つ象徴的な意味である。 ブランドの一般的なイメージが消費者に 「信頼感を与える」 というシンボリックな意味を持っている。 もちろん、このようなブランドやグッドウィルのような、 商品に付随する無形的なものは、 単なる飾りでしかないと考える向きもある。また、 たしかにただの装飾にすぎないようなブランドも実際には存在する。このようなものの場合には、 商品というものから、 このような無駄な飾りを取ったほうがよいのかもしれない。今日では一部のものを除いては、すでに過去のものとなってしまったが、このような考え方が流行って、ノーブランド商品が出回った時期が、先進諸国には以前あった。 けれども本来、商品というものは、 物それ自体なのでなく、むしろ商品が商品として成り立つのは、 取引の過程を経てはじめて成り立つものなのである。 取引が前提となって、 そのうえで商品の実質的な意味が問題となるのである。 したがって、取引のうえでの信頼関係の存在することが、 消費者が商品を受け入れるための必要不可欠の条件だといえる。この信頼性という象徴的な価値を暗黙のうちに表示するがために、ブランドにはその実質的な機能の及ぼす価値以上の評価が与えられることになるのである。 おそらく、このような意味を持つブランドは、これからの大量消費と消費の多様化という事態が深刻な状態にまで進む時代には、 さらにいっそう重要性を増し、求められる要件であると考えられる。 たとえば、輸入品が増大する消費社会を考えてみればよくわかることである。 消費者は、 販売者に比べて、 極端に商品の情報からは遠い存在である。 つまり、このような商品に関して、 情報の不平等性が存在する場合には、 その輸入品の情報を自分で集めるには相当なコストがかかってしまう。むしろ、 信頼感の確立しているブランドを目当てにしたほうが余程良い場合が多いといえる。あるいは、あまりに多様化の進んだ商品では、 自らの欲望があまりに膨張しすぎるために、かなり不確定な状態に陥る場合が多いが、 このようなときに選択の幅を絞ってくれる役割、 ある意味では、選択の苦痛から解放してくれるとでも言いうるような役割を持つのが、 これらのブランドのような消費習慣なのである。 実際、このような事態はわたしたちの日常消費の在り方そのものなのである。今世紀初頭の社会学者G.タルドは、 人びとの言葉が構成する「会話(conversation)」 が経済的な価値を決定する、 と主張した(15)が、 まさに日常品のブランドは人びとの会話のなかで、 その信頼性が鍛えられて洗練され、 そのうえで経済的価値が付け加えられるものだといえる。 ブランド選好とトリクル・ダウン理論 ここで問題は、 なぜ、 あるいは、 どのようにしてこのブランドというものが、大勢の人びとのあいだに広まるのか、 という点である。 このことがわからなければ、今回の価格破壊現象でなぜこれほど価格低下現象とともに、ブランド現象の広がりも同時に、 見られたのかが説明できないことになる。
なぜブランドがこれほど大衆層に求められるのか、という理由については、 いくつかの考え方がある。個人の持つ、 ブランド志向という欲求にまで還元して考える説もあるが、ここではその社会的な広がりを問題としているので、 個人レベルで考察するよりも、 むしろ個人間の相互関係が生ずるレベルで考えることにする。 この点に焦点を絞るならば、 ドイツの社会学者G.ジンメルの『流行』に関する理論は、 たいへん示唆に富むものである(16)。 ジンメルは、 このような大衆化という動きの生ずる原因を、 人びとの間に存在する 「模倣」 というメカニズムに求めた。 ジンメルのいう流行とは、 英語でファッション(fashion) という言葉を使うが、 この言葉はそもそも上流階級で流行っている風習を言う。 この上流層の流行を下流層が反復する過程を、 模倣と呼んだのである。 ここで繰り返し反復が行われることによって、その流行は量的な拡大を達成し、 つまり大衆化されることになる。彼によれば、 流行とは上流階級から下流階級へむかって流れる階級間現象であると考えられた。 上から雫が垂れるように、 下にむかって普及が行われることから、 この理論は後の人びとによって、 トリクル・ダウン (滴下) 理論と呼ばれるようになる。(図-1参照) ところが、 ジンメルの流行理論がほかの模倣理論と比較して優れている点は、 この模倣過程による大衆化の説明には、 明らかに限界のあることをあらかじめ理解していた点にある。 それは、もし模倣過程だけで流行の大衆的な拡大を考えるとするなら、 いずれその動きは飽和状態を迎え、 模倣はそれ以上続くことはない、 と言えるからである。
したがって、模倣過程が生ずるところでは、 かならずその模倣という行為を否定する過程が、 必然的に付随して起こってくると考えた。 このような同じ様式の反復を拒否して、 新たな流行を創造する過程をここで、 消費理論家G.マクラッケンに倣って、「差異化」 と呼んでおく(17)。 もしここで起こる反復による飽和状態を避けようとするなら、 絶えず上流層では、 下流層に対して差異化が行われなければならないことになる。 模倣が絶えず成立するためには、 下流層が模倣するに値するような、 上流層固有の流行がつねに保持される必要がある。このようにして、流行は模倣過程と差異化過程とを繰り返すことによって、その運動を維持することになる。ここで、模倣は差異化の生じるための条件であるし、また逆に差異化も模倣の条件となっている。(図-2参照) 消費社会が動いていく原理も、ほぼ同様に考えることができる。一方において、消費される商品が開発され、その商品購入が反復されることを通じて、大衆層にその商品が浸透することになる。つまり、「模倣過程」を通じて、大量消費という消費の量的な拡大がおこなわれることになる。他方において、既に飽和状態に陥った商品とは、異なる商品が新たに開発され、先行的な需要者があらわれる。ここでは、大衆層に対して「差異化」が行われ、多様化という消費の質的な拡大が図られることになる。大衆消費社会のなかでは、大量消費と多様化は消費を推進する車の両輪の役割を果たしている。 ブランド消費における模倣と差異化 「流行は繰り返す」 とよく言われる。 この言葉をもじって使うなら、「流行のパターンは繰り返す」 と言うことができるかもしれない。ジンメルが、 流行現象のなかに見た模倣と差異化の相互関係は、 そっくりそのまま、今回のブランドをめぐる消費現象のなかにも観察できる。 ジンメルにとって、 流行というものは階級の格差を際立たせるものであった。けれども、今日の大衆消費社会のなかではこのような「大きな」 意味での格差というものは、 たとえ有ったとしてもそれほど目立つものでは無くなってきている。 前述のマクラッケンが指摘するように、 今日の消費社会で模倣や差異化の対象となるのは、 もはや階級差や階層差でもなく、むしろ年齢差、 地域差、 性差などのような「小さな」 格差であるといえるかもしれない。 おそらく、ブランドというものは、 このような「小さな」 格差を表示する媒介物(メディア) としては、 打って付けのものであったのである。実際には、ブランドは品質の違いや、 デザインの差異、 材質の相違、 評判の差などを組み合わせて、 製品の差別化を図っていることになる。 この差別化の過程では、 ブランド企業はその商品戦略に従って、たとえば世代の違いによって異なるブランドを設定したり、 女性か男性かの違いによってブランドを変えたりするような工夫が行われている。 問題は、 今回の価格破壊現象のなかで、ブランドが差別化を行い、 高いマージンを確保する手段として利用されたというより、「標準化」 を行い、 低価格化を促進する手段として活用された、 という点にある。 つまり、これまでと同様に、 ブランドは差別化の手段なのか、 それもブランドの役割は変容して、 もはや差別化の手段ではないのか、 ということがここで問われているのである。 ところが、 今回の現象のなかで、 とくに目覚ましいはたらきを示したのは、 製造メーカーが供給するような、 一般的な「ナショナル・ ブランド」 と呼ばれるブランドではなく、前に述べたように主として流通業によって設定されるような、「プライベート・ ブランド」 であることが知られている。 このことから分かるように、 今回の現象のなかでは、 ブランドの役割について二つのものが分岐している、 という事実である。 ここで比較して考察すると、 今回ナショナル・ ブランドは主として「 差異化」 を受持ち、 プライベート・ ブランドは主として「 模倣」 を受け持ったと解釈できるかもしれない。もちろん、この関係は将来逆転するかもしれない。その可能性は十分あるといえる。 今回の現象のなかで興味深いのは、 前にも述べたように、 このプライベート・ ブランドというものが、 ブランドの性質を保持しながらも、 同時に低価格化の手段としても、 目立ったはたらきを見せたことである。 プライベート・ ブランドというものは、 このようにブランド消費を反復させて販売に利用しようという意図を持っているものと考えられる。 したがって、このようなブランドは、 大衆層を狙った二次的な、 代行ブランドであるという性質を強く持っている。 以上のことから考えると、 プライベート・ ブランドというものは、ブランド消費のメカニズムのなかでは、差異化の過程よりも、 むしろ模倣過程でその機能を発揮するタイプのブランドであることがわかる。一般的に見て、 このような模倣過程で売り出される商品には、開発費や宣伝費などが、 新たなブランドに比べてかからないために、 通常価格を抑えることが可能である。 このような大衆向けのブランドが創造されることについては、歴史的に見ても、 あるいは近年においても、 数々の実例を挙げることができる。 たとえば、英国陶器ブランド「 ウェッジウッド」 の例は、 スマイルズの『西国立志篇』などで取り上げられたために、経済史上古くからすでに有名な事例となっている。この製陶メーカーは、18 世紀にJ.ウェッジウッドによって創業された。 このメーカーは、「クイーンズ・ ウェア」 と呼ばれた、 王室御用達の陶器で、 その品質が認められ、 高級ブランドを確立することになるが、 その一方で、「クリーム・ ウェア」 や「 ジャスパー・ ウェア」、最近では「 ピーター・ ラビット」 のキャラクターを取り入れた、 大衆向けのブランドも確立したことで、 大量販売にも成功している。 王室御用達による「 差異化」 過程と、 大衆向けブランドによる「 模倣」 過程との両方をバランス良く、 活用することで成功している例である。 つまり、ブランドを利用して販売を行うとき、 差異化だけでも、 また模倣だけでも長続きしない。これらが、 ほどよく噛み合ったときにブランドは威力を発揮するものといえる。 今回の価格破壊現象のなかで、 プライベート・ ブランド以外に、 類似の例を探すならば、 いわゆる「アウトレット」 と呼ばれる商法をあげることができるかもしれない。ブランド製造メーカー自身が工場直出しの形態をとって、 直接ブランド品を安価で提供する商法である。米国でかなり流行ったものを、 日本の百貨店などが真似をしたものである。この場合、 すでに確立しているブランド品を売ったり、高級ブランドの売れ残りを処分したりするのであるから、 品質などは保証済みであり、また開発費用や宣伝費用を低く抑えることが出来るため、 低価格で販売することが可能である。 おわりに この小論で提起した問題は、 今回起こった価格破壊現象は、 低価格化によってもたらされた製品の「標準化」 現象なのか、 それとも価格以外の要因が強くはたらいた「製品差別化」 現象なのか、 という疑問であった。ここでの結論にしたがえば、両方の現象が複合した現象である、ということになる。もっと正確に述べるならば、 消費社会の全体の示すメカニズムの「模倣」という一過程が強調されてあらわれた現象であるといえる。 とくに、ここでプライベート・ ブランドの動きは、 注目に値するものと考えられる。 この種のブランドは、 ブランドであるからには、 ノーブランドの商品に対しては差別化される。 ところが、今回プライベート・ ブランドがとくに模倣過程で多用される、 ということが起こったのである。 したがって、すでに差別化されていた既存のブランドに対しては、 プライベート・ ブランドは標準化の役割を果たしたことになる。 もちろんここで、価格によって生ずる標準化と、価格以外の要因によって生ずる標準化とは、厳密に区別されるべきであることは言うまでもない。後者は、今回のプライベート・ブランドに見られたように、「模倣」による品質やデザインや技術の標準化であるが、前者は単なる「低価格」という点に関する標準化であるにすぎない。前者の場合、価格を「破壊」するだけなら良いが、「価格破壊」によって取引関係の信頼性そのものが「破壊」されてしまう恐れを絶えず含んでいる。このことを忘れてはならないと思われる。 最後に、冒頭の問題に再び戻って言うならば、消費はどのように人びとを関係付けているかという問に対しては、やはり今回の価格破壊現象のなかでも、模倣と差異化という人びとの基本的な結びつきをみることができたといえる。けれども、ここでも注意しなければならないと思われるのは、過剰な模倣と、過度な差異化が行われる危険性がつねにあるということである。かつて、ポストモダン的な消費とでも呼ぶことができる消費がもてはやされた時代があった。そこでは、過剰な繰り返しを多用して多様な商品開発を行うような、パスティッシュという手法が用いられたり、まがいもの風や模造品風を装うような、キッチュと呼ばれる手法がもてはやされたりした(19)。このような過度の多様化が進んだ時代のあとに、今回の価格破壊現象が起こったという事実を、わたしたちはじっくりと考えてみる必要があると思われる。 注記 (1) 高橋文章「価格破壊−消費拡大とデフレ効果、どちらが大きい? 」『エコノミスト』73(1) 1995 年 山家悠紀夫「価格破壊の行方」『週刊ダイヤモンド』83(1) 1994年 香西泰「価格破壊とデフレの違い」『日本経済研究センター会報』716 1994年など (2) 孫田良平「価格破壊に先行して賃金破壊が起きていた」『エコノミスト』72(45)1994年 宮尾尊弘「価格破壊は日本を救うか」『エコノミスト』72(32) 1994 年など (3) 「特集・ホテル価格大崩壊」『週刊ダイヤモンド』82(44) 1994 年 佐藤英司「特集・価格破壊は儲かったか―ガストの1年後を評価する」『週刊ダイヤモンド』82(33) 1994 年 (4) 城山三郎『価格破壊』角川文庫 1975 年 (5) 朝日新聞 1987年 3月19日付 夕刊 (6) 読売新聞 1988年 8月28日付 朝刊 (7) 「特集 価格破壊はどこまで可能か」『週刊東洋経済』5228 1994年 高橋文章「価格破壊−消費拡大とデフレ効果、どちらが大きい? 」『エコノミスト』73(1) 1995 年 (8) 岸井雄作「消費者物価指数が価格破壊を反映しない理由」『エコノミスト』 72(41) 1994 年 (9) 西村清彦「製品差別化」『日本の産業組織』有斐閣 1995年 (10)F.コトラー& G.アームストロング『マーケティング原理』和田、青井訳 ダイヤモンド社1995年 (11)井原哲夫『「ブランド」を解読する』PHP 研究所 1992年 (12)T.ヴェブレン『有閑階級の理論』小原訳 岩波文庫 1961年 (13)T.ヴェブレン『営利企業の理論』小原訳 勁草書房 1965年 (14)井原哲夫『「ブランド」を解読する』PHP 研究所 1992年 (15)G.タルド『世論と群集』稲葉訳 未来社 19 64 年 (16)G.ジンメル「流行」『ジンメル著作集 7』円子、大久保訳 白水社 1976年 (17)G.マクラッケン『文化と消費とシンボルと』小池訳 勁草書房 1990年 拙著『経済文明論』放送大学教育振興会 1994 年 (18)野口智雄『価格破壊時代のPB戦略』日本経済新聞社 1995年 (19)M.カリネスク『モダンの五つの顔』富山、栂訳 せりか書房 1989年 Copyright 1995 Sakai |
||
|
|