2000.4.1 The Board of Social Sciences

             

ヴェブレンにみる資本概念の現代的意義

 

 

                            

  概 要

形式的な 「総資本」 の概念に対して、 ヴェブレンが提起した実効的な資本概念とは? また、 その資本の企業および企業者に対する影響は? 近代的株式会社制度のもとにおける資本概念を、 ヴェブレンの著作 「企業の理論 」、 「特権階級論」 などを中心に明らかにし、 その現代的な意義をさぐろうとするものである。

 

 

1.資本概念をめぐるいくつかの見解


資材の蓄積が分業を促進させ、その結果として生産諸力を発展させることを、 その著 「諸国民の富」のなかで説いたA.スミスは、 「資本」とは、 その蓄積された資材のうちでも、 直接所有者の消費に充当される部分ではなく、 使用者に収入なり利潤なりをもたらしてくれるものであるとし、 引き続いてその使用方法については、 流動資本とし て使用するか、 固定資本として使用するか二つの方法があって、 資本が使われる職業の種類によってその割合が異なっていることを述べている。 (岩波文庫版 (二) pp.235-237以下ページ数は全て邦訳のそれである。) ケインズは、 スペインが新世界から運びこんだ 金銀財宝の帰結としての物価上昇と、 それがもたらした利潤に起因して、 16世紀に始まった資本蓄積を現代の幕開けとみている。 (説得論集 邦訳ケインズ全集9巻 p.390 宮崎義一訳) スミスから200余年、 産業の規模と範囲は当時の手工業制の生産様式から、 法人組織による大企業の生産体制へと大きく変貌をとげ、 需要を上回る生産力増大の結果 は、 競争の場を生産から販売へとその様相を変えてきたが、 「資本」 についての一般 的な認識については、 当時と大きな隔たりはないようである。


資 本 (capital) [A] 土地(自然資源)・労働とならぶ重要な生産要素。 天賦の経済資源である土地・労働が本源的生産要素といわれるのに対し、資本は生産された生産手段であり、過去の生産活動が生み出した生産物のストックである。 資 本の大部分は工場・機械など生産設備の形をとり、一部は製品・原材料・仕掛品などの在庫の形あるいは住宅の形をとる。 [B] 商業・会計用語としては、企業の資産総額を意味し、 有形固定資産である資本財だけでなく、商標・営業権・特許権など無形 固定資産をも含むものと解される。 [C] マルクス経済学では、価値増殖を行う価値の運動体を資本と定義している。 


以上は、有斐閣 「経済辞典」 新版 (1993) の記述であるが、現代の資本観の要点を表現しているものとみて大きな誤りはないであろう。 [A][B] については スミス の記述の延長線上にある。
その資本を所有することが、 「他人の労働の生産物」 に対して 「私有をもたらすの は、なににもとづくのか。」 (経済学・哲学草稿 岩波文庫 p.39 ) との疑問に発して、つ いに「資本論」全3部の大著を世に問うたのは、申すまでもなくマルクスであった。 彼は資本主義的生産様式において、資本が生産手段と労働力に投下されることによって剰余価値=利潤を生み出し、かつその資本が自己増殖して価値を拡大再生産していくしくみを明らかにしようとした。 そしてそれゆえに、資本はそれを所有する人間としての資本家自 身に対して支配権をもつに至る、と主張する。 上記辞典が[C]で 「価値増殖を行う価値の運動体」 とのべているのは、マルクスが見たこのような資本の機能なのである。 そして続けて、 経済学・哲学草稿でマルクスが 「資本とは何であろうか。」 との問いに 、「蓄積され貯蔵された労働の一定量である。」 というスミスのことばを引用して、「 資本とは貯蔵された労働である。」 と定義しているのは、 資本の形態においては スミ スの見方を踏襲していたものと見ることができよう。 
これらが資本をみる視点は、 流動資本にしろ、 固定資本にしろ、 いずれも企業会計 における借方=資産科目である。 手工業者が自己ないしは雇用者の労働の蓄積、 または相続で取得したものを資本として使用している時代であるならば、 それをそのままその 所有者の資本とみなしてよかっただろう。 だが、 現代の企業制度である法人組織においては、 それら資産の所有者でなくても企業者たりうるし、 それら資本の運用とは無関係の者が株主として所有者の立場に立つのである。 ここにおいて、 資本とは企業者にとっての 「購買力の基金」 であるとして、その概念を借方科目から貸方科目に転換したのがシュンペーターであった。 シュンペーターの資本とは、「企業者が彼の必要とする具体 的財貨を自分の支配下におくことができるようにする梃子にほかならず、また新しい目的のために財貨を処分する手段、あるいは生産に新しい方向を指令する手段にほかならない。」 (経済発展の理論 岩波文庫 上291) のである。 即ちそこでは資本は、「蓄積された労働」の現象としての財貨の世界に対峙するものであって、 生産手段としての財貨ではな い。 資本で生産手段を入手してしまえば、そこにはもう資本は存在しない。 残るのは、 購買力として使用した負債としての資本金である。 スミスが 「それは……の購買にも 使用される」 という表現を使用しているところをみれば、 スミスにも同様の認識があったとも考えることができよう。 企業会計に接することのある人であるならば、 貸借対照表の左側=借方に資産の部として流動資産と有形・無形の固定資産及び投資などが計上され、 右側=貸方には負債の部と資本の部が計上されて、 借方 ・ 貸方それぞれの合計が一致することは、 誰にとっても常識のことがらである。 この貸方が 「負債」 及び 「 資本」 に区分されていることについてシュンペーターは、 「簿記の資本概念はきわめて狭く、 簿記は実際上の理由から ―― すなわち、 ……、 この観点は……二次的なもの である ―― 資本を役割および本質において同類の金額から区別しているのである。 わ れわれが資本概念の中に資本主義という現象の核心を含むような要因を保持し、 あらゆ る資本理論が意識的ないし無意識的に把握することを目標として考えているような要因を保持しようとするならば、 資本概念を簿記上の範囲をこえてこのよう [負債の部を含めたすべての貸方項目] に拡大しなければならない。」 (前掲書 上319−320) と述べて、 「資本概念」 を通じて資本主義の本質に迫ろうとする場合、 その区別は無用なものであるとする。 それは結果として借方の資産合計、 すなわち現在 「総資産」 と呼ばれているものと等しい金額ではあるが、 彼はそれをもって 「資本」 と定義した。 もちろんシュンペーターは、企業者が自己の所有する生産手段を処分して、受け取った貨幣を新しい生産手段に投資する事実を無視したわけではないし、 むしろこれこそが彼のいう新結合 の骨子なのであるから、企業者が自己が支配する生産手段、 すなわち総資産を省略的に 「自分の資本」 と呼ぶことを否定しはしない。(前掲書 上297) それが信用によって入 手した財貨であるかどうかは問うところでない。 こうしてシュンペーターにあっては、 資本はどこまでも企業者の手中にある梃子であって、 資本を増加させるも、 減少させるも企業者の用いかたによるのであって、資本自らが自己増殖の道をあゆみ、 その所有者 を支配するという資本の物神性は論理的にありえない。 この点においてシュンペーター とマルクスは、 ともにその機能を論じつつも対極に位置している。 しかし、 この 「購買力」 になる資本そのものも、 元を質せば所詮はいずれかのところで、 いずれかの方 法によって 「蓄積された労働」 であったことには間違いないだろうし、 「資本」の範 囲も貸借対照表 (バランスシート) の枠をはみ出すものではなかった。
これに対し、 このような帳簿上で固定した、 株式の額面価格によって表示されるような資本金は名目的なものに過ぎず、 株式会社金融制度のもとで企業者に賦与される実効 的な資本とは、 その会社の有形・無形の企業資産が生み出す予想収益力を基礎として、 繰り返し市場の評価で定められる証券価格の相場こそ、 その企業資産から資本化して企 業者に与えられた資本であるとして、 資本化額 capitalization という言葉を使用した のは、 Thorstein Veblen (1857〜1929) であった。 彼はまた資産を担保として信用によって取得した資産の拡大が、 更に累積的な信用拡張をもたらすといった企業金融の実態 にも目を向けた。 シュンペーターが、 諸生産設備の購買の梃子としての資本を認識したのに対し、 ヴェブレンは、 更にその設備が担保として資本化される近代企業の金融面を重視した。 シュンペーターも、 このようにして発行された、 社債などの負債と資本と の間に、 本質的な区別を設けないことは前述した通りであるが、 ヴェブレンはこうして資産が累積的に資本化され、 信用が拡張していく過程と、 それがもたらす結果とを重視する。 従って、 ヴェブレンの資本化額は、 永続的、 非伸縮的なものではなく、 過去となったものはいずれ帳簿上に数字として反映されるとしても、 どこまでも暫定的なも のであり、 常に変動してやまないものである。 同時にそれはまた、 「蓄積された労働 」ではなくて、 将来の収益を先取りした信用に基づく金融によるものであるから、 将来の収益で資本化に伴う固定費を補えなければ、 常に会社清算の金融的危機を内包するも のとなっている。 シュンペーターが生産的側面での経済発展に視点を合わせたのに対し 、 ヴェブレンのそれは、 企業金融の側面に視点を合わせている点で対照的であるとともに、 マルクスと同じように、 資本に内在する自己増殖の働きを指摘してはいるものの、 剰余労働にその基礎をおくマルクスのそれとは大きく異なるものである。 それは1901年の結成時に6億8千万ドルの実質資産に対して 14億ドル近い普通株、 優先株、 社債を 発行し、 レールの価格を13年間にわたって、 コストの倍以上に保つことができた U. Sスチールに代表されるような、 近代的アメリカ企業を視野の中心にすえてのものであ った。 カーネギー製鋼とフェデラル・スティール社の合併で成立した、 当時としては世界最大の独占的産業企業がそれを可能にしたのである。
いまわが国でも、 銀行の体力低下にともなって、 企業資金は間接金融ばかりでなく、 市場からの直接金融による調達が増大してきた。 銀行を中心とした、 株式の企業間持ち合いは徐々に解消に向かい、 買収・合併の機会が増大する一方で、 持株会社によるグループ化の道も開けた。 ベンチャー企業育成のための資本市場も整えられつつあり、 未上場企業の企業者も、 その株式を上場させることによって、 膨大な創業者利得を手にすることができるし、 おそらくそれはまた、 次の発展のための購買力として利用されるであろう。 自社株式の価値を高め、 高株価に保つことが、 資金調達を有利にしているこ とは、 増資や、 転換社債 ・ワラント債の発行に際しても明瞭なことであるばかりか、 今や、 その株式を交換することによって他社を支配下に置くことさえ可能となった。 
1904年にヴェブレンがニューヨークで ”The Theory of Business Enterprise” (邦訳 「企業の理論」 小原敬士訳 1965 以下出所は B, と略記する) を出版して約1世紀、 産業界の規模も範囲もその内容も大きく変容した。 しかし、 そ れにも拘わらず、 われわれが今、目の当たりにする実業界の情況は、 ヴェブレンが残した数々の示唆を、その変化した今日でもなお、 生き生きとした真実性をもってわれわれ につきつけてくるものがある。 経済のグローバル化と外圧によるものとはいえ、 もろ もろの規制緩和によって、 わが国の産業界にも、 ようやく、 ヴェブレンがそこで記述 したような時代が訪れようとしているようにも見える。 ここでそのことの功罪を論じよ うとするものではないが、 シュンペーターの言葉を借りるならば、 ヴェブレンの資本概念は、 「[現代] 資本主義という現象の核心を含むような要因を保持し」 ているもの と確信するので、 近代企業の生い立ちと、 その本質についてのヴェブレンの現代的意味を、 彼の資本概念を中心としてさぐってみようと思うものである。


             2.ヴェブレンの資本概念


1.近世的見地の体系と近代的会社資本  
マルクスは前述の 「他人の労働の生産物にたいする私有は、なににもとづくのか。」 の問いに対し、「実定法によって」(セイ)、 資本を所有することは、それによっても のを買い取れる力をもつことを意味し、「その力で買い取った他人のすべての労働とその全生産物にたいする命令権をも獲得する」(スミス) ことになるのであるから、 資本の所有者である限りにおいて、 購買する権力が労働とその生産物にたいする支配権をもつ と考えた。(経済学・哲学草稿 39,40) しかし、 この労働を 「購買する権力」 が、 生 産物の 「支配権」 に移るためには、 先ず資本所有者に対する 「購買する権力」 とし ての 「資本の所有権」 の確立、 及び 「資本所有者と労働者の間の契約」 という二つ の契機を必要とする。 この所有権の確立と契約の自由こそは、 A.スミスによって代表され、 18世紀以来の人間関係を規制してきた 「機会均等、自助、売買の自由の諸原則を構成原理とする近世的見地」 (T.Veblen "The Vested Interests and the Common Man" 1919 邦訳 特権階級論 猪俣津南雄訳 1925 以下 ”V,”と略記) の体系として、 近世以降の市場経 済を支えてきた2本の主要な柱であるが、 近代的株式会社資本の発生以来、 資本の所有 権と雇用契約のどちらの側においても変質が起こったことをヴェブレンは指摘する。 


「以前の個人的な雇主所有者は影をひそめ、合成的な営利業務体がそれに代わ り、後者は、所有者の結合を代表し、所有者各自は、一個人としては該業務体が処理す る事務に対して何等の責任を持たないようになった。」 (V,70)


法人組織化した機械的大産業に関する限り、 所有権者の所有物に、 所有権として賦与された権能の一部である自由な処分権は喪失した。 所有者には、 その持ち分に応じて利益の一部に対する請求権をもつ証書、 すなわち株券が手渡されるだけである。 即ち、所有と経営の分離である。 バーリとミーンズが 「近代株式会社と私有財産」 においてそ れを実証するまでには、 さらに10余年の歳月を必要としたが、 ヴェブレンの目にはすでにその端緒において、 本質が写っていたのであろう。 そして労使の契約については、 

「個人的な雇主所有者は、事実上、大産業から姿を消した。 彼に代わって彼の地位を充たしているものは、今では、法人の有価証券簿と、役員団と、それから、 限られた範囲の自由裁量を行う雇人とである。……、労働者と、彼等が働いている施設物との 関係、及び彼等を雇っている匿名の法人的所有体との関係を明定する所の契約上の取極め までが、 今では統計的算定の形をとり、人間対人間的な関係の痕は全く見えないのである。(V, 71)


という。 現在の労使関係を、 このように切り捨ててしまうことには異論があるかもし れないが、 少なくとも、 100年前の関係が、 それ以前のスミスやマルクスの時代と 異なっていたことも、 事実であろう。 しかしここでヴェブレンが言いたいことは、 こ のように状況が変化したにもかかわらずなお 「法律や慣習の形でこの契約的関係を支配 しつつある近世的見地の諸原理は、 賃金及び労働条件が、 [スミス時代に確立した] 個人的の理解及び平等の機会の基礎の上に、人間対人間の自由な契約によって取極められるという仮定の上に成り立っているのである。」 (V, 71) ということにある。 18世紀の手工業的な産業状況のもとで確立し、 スミス によって象徴されたこの体系が、 依 然として没個人的な法人資本が主要産業を覆うようになった社会の基準を規定している、 とヴェブレンは指摘するのである。 常に法律や慣習は、 産業や技術の進展と、 それに伴う人間行為の変化に対して前時代的であり、 新しく発生する観念も以前の秩序から引 き継がれた諸制度や理想によって条件づけられる、 というのがヴェブレンの変わらぬ歴 史認識である。
そして、 このような所有権や、 雇用契約の関係の変化に対応して、 資本もまた非個 人的な性格を帯びるようなにったことについて、 次のようにいう。


「この型の資本は、 一つ以上の意味において、 没個人的である。 即ちそれ は、 当の事業の経営乃至は評価にさしたる影響を及ぼすことなしに、 一人の個人から他の個人へと部分的に譲り渡されることができ、 そして又、 その資本のどの部分にせよ これをする者が如何なる個人であるかということは、 該業務体それ自身でさえも……、 これを知るの要がないのである。」 (V, 74) 
と。


2. 産業資本と企業資本  
ここまで、 「産業」 と 「企業」 という言葉を使い分けてきたが、 それは意識的な ものである。 ヴェブレンの企業理論は、 生産に携わる産業と、 最大の利潤をめざして 戦略的に生産の調整や販売の促進に専念し、 それを金融的に支配しようとする企業とを 、 関連しながらも対立するものとしてとらえる二元論を特徴とする。 彼が取り上げる産業は、 飛躍的に生産力を拡大した近代的な機械制産業である。 そして一方、 「企業の 動機は金銭的利得であり、 その方法は本質的には、ものの売買である。 その目的と通常の結果は、富の蓄積である。」 (B,19) という、 ヴェブレンの企業の定義は明快である。 彼の研究の目標は、「このような企業の方法や原理が、 『いかなる過程も自己充足的なものはない。』 (B,9) [ものを造る]機械制産業と結びついて、いかなる仕方で 現代の文化的状況に影響を及ぼしているかを十分に示しうるような、営利企業にかんする一つの理論の輪郭を作り出すこと」(B,20) にあった。 現在、 機械産業と結びついて産業の組織化であるとか、産業間の調整に携わる純然たる非製造企業は、日本の総合商社のような特殊な例では存在するが、 世界の殆どの製造企業が製造工場や研究所のような 産業部門とともに、 製品の販売や金融に拘わる企業的部門をもち、 それらを統括する本社機構のもとに、 統合された組織にあるのが常態であるから、 現代の目でみれば、 ヴ ェブレンの 「産業」 と 「企業」 という区分は一つの抽象と理解すべきであろう。 し かしながら、 現代的産業企業の発生段階においては、 なお企業部門がないか、 或いは あっても脆弱な製造会社と、 強力な組織能力を備えるに至った現代的生産企業の収益力 を具体的に比較することは可能であったかもしれない。 したがってそれは、 ヴェブレンの処女作、 「有閑階級の理論」 The Theory of Leisure Class 1899 以来、 彼が重要な人間の本能として考えてきた workmanship の、 salesmanship への分裂が 、 機械産業の進展とともに発生した、 といった抽象的な認識に基づくだけではなく、 実質的な両者の収益力の較差からも、 彼の 「資本」 は産業資本と企業資本とに分裂す る必要があるのである。 それはつぎのように具体的な資本形態の差として現れている。


「その使用によって、これらの生産物、したがってまたこれらの収益が発生する有効な産業資本は、現に産業に使われている物的要素の資本化額である。」 (B,87)


即ち産業資本とは、 資本によって購入された諸生産設備の予想収益力から推定された 、 産業企業の [再] 資本化された価値である。


「これに反して企業資本は、このような、価値の基金として考えられたような産業資本の資本化額プラスのれん、プラスこのような産業資材の資本化額を担保として用いられることにより信用によってえられるあらゆる資金、プラス担保として用いられるその他の非産業的な財産によってえられる資金から成り立つ。」 (B,87)


企業の定義ほど明快ではないが、 産業資本との収益力の較差をもたらす要因として揚 げた上記の区別は、 それを現在の言葉になおせば、産業資本は冒頭で引用した辞書の  [A]を、 そして企業資本は、 それに無形固定資産 (辞書の[B]) や、 非産業的 財産とそれらを担保として得られた資金を、 資本化して加えたものである。 このように産業と企業を区別するヴェブレンと、 「 [経済と技術] の間には対立関係が存在し、 それは経済生活においてはしばしば一企業の技術的管理と経営的管理との間の人的対立として見かけられるものである。」 (経済発展の理論 上 46) と述べるシュンペーターとの 間には、 大きな認識上の接点をもつものがあるが、 ヴェブレンの企業と産業の対立は、一企業内の人的対立に留まるほど矮小なものではなく、 生産・販売の組織の問題、 そしてまた文化の相違としてとらえられているのである。


3.利潤の認識と、利潤を生む財産の資本化  (この節 B,7074 要約)  
企業の動機が金銭的利得であるとすれば、企業に投下された財産に、安定的で、きちんとした増殖が見込まれなくてはならない。 しかし、 機械制産業出現以前の経済制度のもとでは、投資にたいする利潤は、正常で、適正な収益の源泉とは考えられていなかった。 所有者が所有する富の増加という歴史的事実とは別に、 「単位時間あたりの通常の割合で、所有者の富が増大するはずである。」 という認識は、荘園制度のもとの人々の意識 にはのぼらなかったであろうし、その時代の冒険的な商業上の利得は偶然の出来事と考えられていた。 利子の支払いが適法なものとして受入れられるようになったのは、手工業 時代の安定した商業関係のもとでのことで、そのばあいでも、 商取引以外の企業活動か ら生ずる利益は、明らかに、投資に対する利潤よりも、 むしろ生産労働にもとづく増加 分とみなされた。 固有の商取引と区別される、比較的大規模な雇用労働をもった産業が 、 商業的基礎のうえに営まれるようになった場合に、はじめて利潤が明らかに規則正し く、きちんとした出来事としてあらわれるようになった。 ところで、「通常の」 利潤率といっても、 それは時とところだけでなく、 企業の種類によっても異なるものではある。 しかし、 多かれ少なかれ厳密に定義された、 一般に承認される通常利潤率というも のは、 適正で、 きちんと合法的なあらゆる企業に発生するものと考えられていた。 こ のような利潤率の定義は、 非常に変わり易いものではあっても、 当事者にとっては、 実質的で一貫した性質のものであると思われている。 利潤についてのこのような見解は 、 「通常利潤」 を財貨の生産費のなかにふくませたがっている古典派経済学者の立場がよく示している。 だから、 企業者は多くのばあい、 このような通常の利潤率を基礎として特定の企業に使われている財産を資本化するのである。 
正常な利潤率が生ずるかぎり、 その時期は普通であり、 もし利潤率が高まるならば、 その時期は好況期もしくは活況期、 これに反して利潤が低下するならば、 それは苦境 期もしくは沈滞期である。 こうして過去数十年間の、 ますます大規模な産業や、 ます ます広範な企業組織によって条件づけられる利潤追求の要請のもとに、 企業資本の問題 は、 ますます工業施設の大きさや産業機械の生産費の問題というよりも、 むしろ、 収 益能力を基礎とする資本化の問題となった。 こうして、 投資にたいする利潤率や収益率は、 古き時代の偶発的な性質のものから、 19世紀においては、 経済体制の中で中心 的、 支配的な地位を占めるようになったが、 それと同時に、 安定的、 継続的な均衡化をもたらした競争が、 比較的大きな企業者に役立つような断続的、 発作的な形に変わりはじめたため、 一律の利潤率という現象は後方に退いた。 


 4.信用証券としての株式と、予想収益の資本化  
株式会社が唯一の企業形態ではないとしても、 それは現代の産業経営のための企業組 織として典型的であり、 特徴的な形態である。 したがって、 近代資本の特殊性は、 このような近代株式会社のなかに、 もっともよく見出される。 信用の広範な活用によって、 経済の体制が 「貨幣経済」 から 「信用経済」 に移っていたことで、 それはすでに準備されていたことではあるが、 株式会社の発生は、 投資のために企業者へ資本を供給する道を格段と広げることになった。 


「近代的な産業状態が形成されはじめて以来、 二つの主要形態の信用取引が、 投資のために、 企業界でひろく用いられていた。 それは……旧式の貸付と、 資金が株式会社に投下されるばあいの株式とである。 後者は、それが、 代表する資産の管理に関連するかぎり、 一つの信用証券である。」 (B, 92) 


株式は、 特定の財産部分の所有権に付帯する決定権を、 その管理を引き受ける執行機関に委譲するから、 ヴェブレンはそれも一つの信用証券としてみなす。 そして彼は、 このような二つの信用関係のほかに、 近代後期の産業時代に至って、 社債・優先株・選択株といった第三の方策が現れたことを特に重視する。 とりわけ優先株は、 形式的には所有権の証書であるが、 実際には債務の証明であって、 本質的に社債と変わるところはなく、 資本と信用の区別を取り除いたという点で、 他のいかなる信用証券よりも、 も っともよく現代の 「資本概念」 の性質を反映しているものであるとする。 ここでも、 シュンペーターが、 「資本概念を簿記上の範囲をこえてすべての貸方項目に拡大しなければならない。」 といったことと並行するのであるが、 ヴェブレンの資本概念は更に深化し、 拡張する。 
いろいろな額面の優先株や、 債券が、 その企業の資産が担保として負担しうる金額まで、 またしばしば、 その額を超過して発行されるであろうから、 物的設備はこれらの 社債などによって資本化されるわけである。 したがって、 普通株によって代表される のは、 「のれん」 ということばで言い表される、 「無形資産」 ということになる。 社債が物的設備の価値よりも多くのものを代表するような場合には、 「のれん」 はまたある程度は社債によっても代表され、 その会社の企業資本に編入される信用拡張の事実 上の担保として機能する。 「のれん」 は拡張解釈のできることばなので、 次第に広い 意味をもつようになり、 確立された慣習的な業務関係、 正直な取引の評判、 営業権や 特権、 商標、 銘柄、 特許権、 版権、 法律や秘密によってまもられている特殊工程の排他的な使用、 特定の原料資源の排他的な支配といったさまざまなものを含むようになっ た。 これらのあるものは、 シュンペーターの新結合の要素とも重なりあうものである が、 ここでヴェブレンが強調することは、 それらの全てが 「物質的でない富」 即ち 「無形資産」 であって、 とりわけこれらの資産は、 既得権益としてその所有者だけに 役立つのであって、 社会の役には立たず、 けっして国民の富の一部を形成することはない、 ということである。 このことは、 スミスの体系が国家の富、 社会の福祉を目標 においたものであったのに対し、 近代の企業体制は前述のとおり、 企業の利益を目的として成立している、 ということを暗に指摘しているのである。 それにもかかわらず、 これらの特権が、 スミスの時代に確立された所有権によって保護され、 さらに永続的な収益をその企業に約束する、 資本化の重要な基礎となっている、 ということを、 彼は いいたいのである。 このようにして繰り返し行われる資本化を累積して、 現代の大企業は成長してきた。 企業の収益力を資本化の源泉とみなすヴェブレンの論理は次のような ものである。
もし、 担保となる有形の、 実物資産の価値以上に資本化が行われることを 「水増し 」 というのであれば、 現代の状況のもとでは、 よほど無能な経営者のもとでないかぎ り、 「水増し」 されないようなことはほとんどない。 それでは 「過大資本化」 の基準はどこに置くべきであろうか。 そのことばは、 大工業会社の場合適切ではないが、 もしそれが、 何かを意味するとすれば、 「それは収益力に比べての過大資本化を意味するにちがいない。 なぜなら、比較するのに適切なものはほかになにもないからだ」 とヴェブレンは考える。 たしかに、 資本化されたものが物的資産だけであるならば、 その生産費なり簿価なりは数字で示しうるから、 その比較は容易であるが、 「のれん」 の ような無形資産の評価は困難である。 もちろん企業そのものを売買する場合、 それら 無形資産も、 価値として数字に換算されなければならないだろうが、 結局のところ、 その売買価格は、 その企業の収益力からの還元価値であり、 物的設備の評価額との差が無形資産の価値ということになろう。 そして、 基準となる収益力は変化するものであるし、 またそれに基づいて、 収益力が資本化される際の基準である、 利子率もまた独立 に変化するので、 結局のところ収益力にたいする資本化額の調整は、 無形資産を代表する普通株式や、 その他の有価証券の市場相場によっておこなわれるしかない。 他の調整方法は全く役にたたない。 何故なら、 資本化は価値の問題であり、 市場相場は、 価値の問題の最後の拠りどころだからである。 もちろん現在も行われていることで、 増・減資とか、 自社株消却といった調整法はあるが、 それも市場相場に対しては二次的な関係にすぎない。 こうして、 ヴェブレンにあっては、 「法律上の資本化額とは別個の実効 的な資本化額は、 会社の設立や株式発行の過去の行為によって、 永久的かつ非伸縮的に決められるものではなく、 その会社の収益力を基礎として、その会社の有形無形の資産 の、 しばしばくりかえされる評価によって、 暫定的に定められるだけである。」 (B, 110) ということになるわけである。
その収益力の評価によって定まる不安定な株価が、 実効的な資本化額であるというの は、 いささか論理の飛躍であるように思われるかもしれない。 しかしながら, 次章で 述べる如く、 高株価が企業者に対して直接金融を容易にする一方、 不良資産の隠匿にかかわる、 かずかずの不正な事実があったにしろ、 最終的には株価の崩落でその死命を制された山一証券や長銀のように、 近年の事象だけを見ても、 市場は株価を通して企業者に購買力を賦与したり、 剥奪したりするわけで、 ヴェブレンが文字にしなかっただけで暗黙のうちに含意していることは、 それは市場から、 企業者に与えられた、 「購買力 の基金」 なのである。 シュンペーターが、 「人々はとくにダヴェンポートやヴェブレンにおける資本概念に関連してこの事実に遭遇する。」 (経済発展の理論 pp.330,331) といっているのは、 まさにこのことなのである。 以上の含意を踏まえれば、ヴェブレンの資本概念は 「企業の予想利益をめぐって形成される株価を通して、 市場から企業者に配分された購買力の基金」 である。 そして、 バランスシート上の総資産は、 その購買 力の一部を行使した結果として、 企業者から産業部門の統括者 ―― それが企業者と同 一人物であるかどうかは問うところでない ―― の手に委ねられた生産要素と考えることができよう。 それに対して企業者は、 それら帳簿上の資本で表現された生産要素の生産活動の結果としての収益と、 そこから推測される将来の予想収益に導かれて、 市場がその企業の評価として下す株式の相場を、 産業の再編成などの戦略的な目的に使用するこ とができるわけである。 一方で、 こうした資本のあり方が、 それを手中にした企業者に、 生産的産業を支配しつつも産業の利害とは別個の利害を与え、 その結果として、 企業者の行動を産業の利害からかけ離れたものとしてしまうことがある。 企業結合にお いて、 企業者が求める窮極の目標は、 「産業的な効果性ではなく所有権の増大である。」 (B, 31) とヴェブレンは指摘する。 


5.経営者の利害  
このような状況のもとでは、 企業者が知っている現実の収益力と、 外部の投資家の推測のなかに形成される予想収益力との間に、 著しい格差が生ずることがあるかもしれな い。 そのとき経営者はその格差を利用して、 あるいは一般に認められている方法によって格差を作り出すことさえして、 利益を追求することが可能になる。 ヴェブレンは 「 決定的な時機に巧みに発表される部分的な情報や誤報は、 この種の有利な一時的な格差 をつくり出し、 かくして、 経営者をして、 自己に有利となるように、 その会社の証券を売買することを可能ならしめるのに大きなはたらきをするであろう。」 (B, 124.125) と述べ、 企業者の関心が、 生産・販売に関する事柄よりも、 むしろ資本の有利な売買に向かうようになることに注意を喚起した。 つまり、


「経営者の企業的な利害は、 生産物の有用性を要求するのでもなければ、 生産物の売れ行きさえ要求するのでもなく、 かれらが管理する資本の価格の有利な格差を要求するだけである。」 (B, 126)


として、 経営者の利益が、 社会全体の利益、 継続事業としての株式会社の利益、 そ してまた、 その時の所有者の利益と必ずしも一致するものではないことを明らかにした 。 いま、 きびしく監視されているインサイダー取引は、 企業情報の非対称性を利用し た不公正な取引であるというばかりではなく、 「重役の企業的な利害を、 かれらがその業務を指導し、その事業政策を指導する株式会社の利害から、 いちじるしく切り離し、 またかれらを駆って、 その努力を、 その会社の永久的な効率よりもむしろ、 現実の収 益力と予想収益力とのあいだの格差に集中せしめる……」 (B, 126. 127) 結果を招くことにもなる。 ここから、 粉飾決算・背任・株価操作など、 現代企業の運営に拘わるさまざまな問題が派生してくるが、 それは本稿の目的ではない。 ただヴェブレンが、 「市場操縦は、 操縦をおこなうもの自身よりも、 むしろ、 その財産が市場操縦の主体となる 株式会社にたいして危険をおよぼす。」 (B, 132) と警告していることは、 見逃せないことであろう。


          3.ヴェブレンの資本概念の現代的意義

まとめと補足  
次のグラフは 1999年 3月期に、 わが国で株式を公開している製造業 1600余社の中から、 総資産の多い順に 10社を抽出し、 その原資を資本金、 内部留保、 および 負債に分けて表示したものである。 内部留保は法定準備金と剰余金の合計であり、 それに資本金を加えたものが株主資本或いは自己資本(純資産)と称されるもので、 更に負 債を加えた貸借対照表の貸方(負債・資本の部)総額は、 借方(資産の部)総額にあた る総資本と呼ばれる額と等しい数値であり、 当該企業がその時点で使用している資本総額である。

 

 
製造業における総資産上位10社の資本構成(1999年3月 ・ 単位:億円)


これらの中で、 企業の過去の営業活動によって収めた収益のなかから、 資本に付加された内部留保が厚い企業ほど、有利子負債に付帯した利払いの負担が相対的に軽いので、 他の条件が等しければ収益力は高い。 その時のトヨタ自動車の1株当りの利益は70.6円であり、 新日鉄のそれは0.1円であった。 それでもその期に新日鉄は1株当り1.5円の配当をしているので、 ますます内部留保を食いつぶすことになる。 人々が企業の 株式に投資する際に基準とするのは、 収益力、 特に近い将来の予想収益力である。 P ER (Price Earnings Ratio) = 株価収益率は、 実績なり予想なりの1株当り利益に対 して何倍の株価に買われているかを現す指標であり、 市場参加者の評価の高い企業程そ の数値は高いものとなる。 また当期利益を期末株主資本で除した ROE (Return On Equity)= 株主資本利益率も資本の活用度合いの尺度として注目されている。 ここでは、 収益が同じなら、 株主資本の低い方が企業者の経営手腕が高く評価されることになる。 一方、 PBR (Price Book-value Ratio) = 株価純資産倍率は株価を1株当り純資産 (株主資本)で除した倍数で、 純資産は株主にとっては解散価値を現すことになるので 、 株価の下限の基準になりうるが、 市場参加者が将来的に収益予想を低く考えるか、 または投資に対するリスクを大きく考えれば、 PBRが ”1” よりはるかに低い株価 にまで売られることも希でない。 
このように現在でも、 株価が企業の予想収益力によって大きく左右されることは事実 であるが、 株価水準がそれだけによって決定づけられるものでないことは、「不景気の 株高」 という言葉にもよく表されている。 その時時の金利水準や、 債券・預金、 さらには外貨といった競合する投資対象との選択を通して、 マクロ的にその水準は位置づけ られるだろうし、 企業同士の株式持ち合いも高株価を支える一因であった。 そしてミクロ的には、 何よりもケインズの言う 「美人投票」 的要素によって、 常に過大・過少の評価がつきまといつつも、 予想が現実となり、 更にその先が予想されることで、 株価 は修正の軌道に入る。 
しかし、 いずれにしても、 高株価が企業の資金調達を容易にし、 その企業の経営者 に対して引き続きより多くの企業資金、 すなわち購買力を賦与するであろうことは、 自明の理である。 時価増資は勿論のことであるが、 転換社債の発行においては、 発行時 の株価水準に基づいてその転換価格は決められる。 償還までに株価が転換価格を上回れ ば、 購入者は転換価格で株式への転換を請求できるし、 企業側は額面と転換価格との差額をそのまま受け取ることができる。 両者の満足のうえに、 このようにして手に入れた資金は、 企業側にとっては追加さるべき生産要素に対する購買力としての資本である。 市場の信任が高く、 高株価の企業は社債の利子率も低く設定できる。 さらに最近では、 商法と税法の改正で自社の株式と一定の比率で株式を交換することによって、 他社を買収することが可能になった。 ソニーは1月にその方法で、 上場している子会社 3社を 、 持株100%の子会社にする予定である。 ここではまさに、 その企業の高い株価そ のものがストレートに購買力を押し上げる結果となった。 また一方では、 自社株を消 却して資本を削減し、 1株当りの資産価値を高めて、 消費低迷のなかで、 株価を高く維持しようとする傾向も増えてきている。
だが、 収益予測はどこまでも予想である。 あらゆる利点を生かして、 もしそれが過 大に資本化されたものであるならば、 やがて予測した収益をあげることができなくなり 、 資本化額と収益とのあいだに較差を生ずることになる。 とりわけ、 増資とか、 社 債の発行など有価証券によって行われる、 富の市場資本化は、 多くの場合 「つねに深 刻な恐慌に先立ってあらわれるような景気高揚の時期にみられる高物価と取引の活況を基礎としておこなわれたものである。」 (B, 154) からだ。 ヴェブレンが特に注視した事態はこうした側面であった。 そして 「このばあい、もしも多額の現存の信用債務がある ならば、 事情はいっそう複雑となる。」 (B, 172) として、 「低い利子率や利子率の 低落は、 経済状態を圧迫する上に効果がある。」 (B, 176) というのは、 誠に人の意表をつくものがある。 ヴェブレンの主張を聞いてみよう。


「産業に従事している既設の企業会社(ことに株式会社) は、---……にたい して---支払わねばならない相当多額の固定費(利子)をもっている。 これらの既存の債務や証券は、 いっそう高利率で高利潤であった以前の時期に契約、「発行」 されたも のであるかもしれないし、また、 いっそう高い利率の時期から持ち越されたものであるかもしれない。……。 債務は、 利子費の点で、 それによって代表される財産の現在の収益力に比べて過大なのである。」 (B, 176)


もちろん、 多くの企業が手を拱いて利子率の低下を傍観している筈はあるまい。 可能ならば債務を低金利のそれに借り替えることを企図するであろう。 しかし、 0金利といわれる ’99年末においても現実に、 以下のような 4%以上の利率で、 '91年頃に発行 された転換社債が14本も、 株価の下落によって殆ど株式に転換されることなく、 償還日を迎えようとしているのである。

銘柄  発行年月 発行額 利率 転換率
(10/31現在) 
償還年月
西松建設 91. 12 100億円 4.0 0.0% 2001. 3
日本工営 91. 11 100億円 4.1 0.0% 2001.3
住友化学 91. 7  100億円  4.7 0.0% 1999.12
住友化学 91. 7  100億円  4.7 3.6%  2000.9
日本碍子  91. 8  450億円  4.5 0.0% 2000.9
九州松下電器 91. 8 300億円  4.3 0.0% 2000.9
新神戸電機 92. 1 80億円  4.4 0.0% 2001.3
松下電工  91. 9 550億円 4.3 0.0% 2000.11
新明和工業  91. 8 180億円  4.7 1.7%  2000.9
リンテック  91. 12 100億円  4.0 0.1% 2001.3
キャビン 91. 12 100億円  4.2 0.0% 2001.2
イズミ 91. 10  100億円  4.5 3.3%  2001.2
京急電鉄 91. 10  200億円   4.7 0.0% 2001.3
阪神電鉄 91. 10  200億円  4.8 0.0% 2001.3

さらに続けて、 営利企業のこのような弱点をいっそう効果的ならしめるものとして、  「新しい投資とか、 [破産状態になって、 管理者の手で] 若返った会社は、 いっそう高い利子水準から持ち越された固定費の基準にしばられていないから、 これらの会社が 市場に存在することは、 過大資本化資産をかかえた企業に、 適当な利潤をあたえる水準まで価格を引き上げることを不可能にする。」 (B, 178) といい、 また、 「資本財」の生産費は、 ますます低下するから、 これもまた新しい産業施設や旧施設の拡張によって商売をはじめる新投資家に役立つ (B, 182) ともいう。
ヴェブレンがみたこうした要因を考えるならば、 今日、 ’98年上場のソフトバンクのような新しい企業群が高株価に買われる反面、 旧来の企業群が歴史的な低金利のなか で、 リストラに懸命になっている姿も、 一層はっきりと見えてくるというものである。 今いわれている勝組・負組の原因をただそれだけで決め付けるのは間違いであろうが、 少なくとも、 現在の低金利が、 困難を抱えて苦闘している企業群の足を引っ張っていることは間違いあるまい。


2.おわりに  
ヴェブレンが生きた19世紀後半から20世紀初頭、 とくにアメリカでは産業の新しい時 代の胎動が始まっていた。 産業は規模と範囲の経済を追求して、企業合同を繰り返し、 大量生産と大量消費の時代が始まろうとしていた。 企業と企業の合併は株券の取引を通 じて進行し、 株式会社制度は、 それ以後の経済発展を推進する大きな役割を果たした。 産業の規模も、資本市場の規模も拡大を続けてきたが、増大する生産力を完全に充たす だけの需要が追いつけず、 生産工場のモデルとなった自動車産業は、 現在では地球規模での提携で生産の集約に進みつつある。 わが国の紙・ セメントなどの資源産業においても、企業の統合は以前から繰り返され、 最も基幹の産業といわれてきた鉄鋼でさえ、 新日鉄の結成以来、 寡占状態で住み分けてきた高炉の5社が、 現在では生き残りをかけて 、 提携による生産の集約を模索している。その一方で、 大量生産と大量消費のツケは、生産の場、 消費の場からの廃棄物として地球環境に対する重大な汚染問題となりつつあ る。 そのような状況の中で、 情報・通信技術が今後の産業の中核にすえられようとしている。ヴェブレンの時代とは全く異なった産業の変革的状況と、 経済のグローバル化に 対応した規制緩和によって、 日本の資本市場でも、ようやく当時と同じように自社株で 他社を買収することができるようになったり、 持株会社の設立も可能となった。 またベンチャー企業のための、 資本市場も育とうとしている。 頑ななまでに株式の非上場を貫いてきた出光興産も上場の検討を始めた( '00.5.24日経新聞11面)ようだし、 セイコーエプソンも 2001年をめどに東証1部上場を決めた ('00.5.28 読売新聞 9面) という。 銀行の体力低下も手伝い、もはや資本市場をぬきにして、今後の経営は考えられなくなったようである。 なお未上場で残る有力企業は、 サントリーぐらいのものであろう。
もともと、 実質資産からの派生商品であった資本が、 さらに先物取引とかオプション、 或いは株価指数といった指標までが取引の対象となって、 一層の派生を繰り返して積み重ね、その市場は複雑、且つ重層的になった。 もはや、その一部は産業への投資から 、 株式そのものへの投資に変化した。 発起人が集まって資本金を集め、選ばれた取締役がその資本で生産要素を整えて生産を開始し、製品の販売から引き出された収益を分配するといった、 定型的な企業運営の過程を連想したのでは、 現代に通ずるヴェブレンの 「資本化」概念のダイナミズムは理解できない。 それは既に活動体として存続してきた 企業が、 法人化や上場、或いは吸収・合併・結合などといった企業戦略を通じて、生産 や販売での合理化だけではなく、 資本市場から必要な資金を調達しようとする手段であ り、 資本市場は市場として、 企業への資金供給の場としてのそれ自身の役目とは別に、 資本取引それ自体からも、 収益を挙げようとする戦場と化しているのである。
一方ヴェブレンが 「企業に対する無名の恩給年金受給者であって……」(V, 74) と述べた一般投資者も、今では年金基金とか、 投資信託といった機関投資家への委任を通し て、 発言力のない単なる「年金受給者」ではなくなったし、 時には、企業者の進退を支配する程の力を備えるまでにいたった。 また、日本の多くの有力企業では従業員持株会 が大株主の上位に顔を出すようになって、 労使の関係に新しい局面を加えた。 会社によっては株式の取引単位を引き下げて、 小口資金でも株主になれる道をひらいた。 証券会社が行うミニ投資や累積投資も、同様に株主層を広げる効果を発揮しており、インターネットを通じたホームトレードの普及とあいまって、大衆株主時代の到来を思わせる様相である。 変化は家計から企業への資金供給が、 間接金融から直接金融へシフトしたに過ぎないことではあっても、 このような人々の行動の変化は、 その思考様式を変化させずにはおかないだろう。 ヴェブレンは、 イギリスで確立し、 19世紀の大半を通じて産業の 経営を支配して、 競争的生産を促してきた機械制産業への「投資からの巨大な所得は文 明生活における最高の刺激となり、 ……、 巨額な所得を収得する富裕な市民達は、……、 総ての市民道徳の標準となった」(アメリカ資本主義批判 Absentee Ownership and Business Enterprise in Recent Times. The Case of America 1923 橋本勝彦訳 アメリカ資本主義批判) と述 べたが、今後、日本で発明したパソコンの前に座って、アメリカで確立されたインターネットを利用し、生の対人関係を拒否しながら、 株式への「投資からの巨大な所得は文明 生活における最高の刺激となり、 ……、 巨額な所得を収得する富裕な市民達は、……、 総ての市民道徳の標準となった」「そしてそれに失敗したものは、 サイトの掲示板に思いのだけの悪態を投げつけ、 あげくの果てにウイルスを撒き散らし……、 」と将来の著者に書かれないという保証はない。
ヴェブレンが 「営利企業の完全な支配は必然的に過渡的支配である、 ということだけはいえそうである。」(B, 316) と書いてからはや、 100年近くの歳月が経とうとしている。 にもかかわらず、 社会は営利企業の活動に一定の制約を課しつつも、 資本と資材 と人を提供し、ここまで育ててきた。 現在の資本主義的社会が、 進化の袋小路にはまりこんでいるのか、 或いはまた、新たな飛躍へ向けて試行錯誤を繰り返しつつ、 産みの苦しみを味わっている最中なのか、 今は誰にも言えないかもしれない。 生物の進化には目的も方向もないが、 人為選択による品種改良は可能である。 社会の変化も同様に無目的・無方向であったとしても、 その方向に対して、 人間が全く無力であるとは考えられない。 
問題はどのような選択を、 誰が、 どのように行うかということである。

   Copyright 2000 Kishi