2002.4.1 The Board of Social Sciences

           

生活政策論序説

−「公私ミックス」論あるいは「公私分担」論

の基礎原理は何か?−

 

坂井素思

 

An Introduction to Living Policy Theory

What is a basic principle of "Public-Private mix" theory

or "Public-Private allotment" theory?

 

Motoshi Sakai

 

ABSTRACT

"Living policy" means the policy to coordinate the social area of our lives where the interrelations between such as individuals, families, enterprises, and nations are included. The reason why it matters the policy theory in such a wide area is that the situation of so-called "Public-Private mix" has appeared today in place of the situation of "Public-Private allotment." It has been difficult only for the market mechanism to solve such a Public-Private mix situation, and also only for an official system of the government. It becomes clear today that it is not in the problem situation that market and nation can supplement each fault with "Public-Private allotment" system if they allot them each other. The combination of flexible systems is needed to correspond the Public-Private matters so that the problem of this area may happen in considerable heavy layers.

As mentioned above, Public-Private matters are the central problems of such living policy theories. But there are some following problem groups that combine and compose such Public-Private matters. For instance, the "Profit-Nonprofit" problem or the "Commodification-Decommodification" problem, and the "Formality-Informality" problem have come to the surface as the essential considerations. The reason why these problem groups are producing the mix situation in addition to the Public-Private matter problem is that not only the importance of the problem "Market vs. Nation" but also the element of "Household Economy" is recognized today. In a word, it has been pointed out as the central problem that the living policy can coordinate the problems of Market-Nation mix, Market-Household mix, and Nation-Household mix. This short essay makes an examination of a basic principle of such "Public-Private mix" problems.

 

要旨

 個人から、家族、企業、そして国家までを含むような経済的な公共領域を調整する政策を、ここで「生活政策」とよぶことにする。なぜこのような広い領域での政策論を問題にするのかといえば、それは「公私分担」が叫ばれていた状況から、いわゆる「公私ミックス」と呼ばれる状況が、今日現れてきているからである。このような公私ミックス状況は、単に市場メカニズムだけでは解決のつく問題ではなくなってきていると同時に、政府の公式制度だけでも解決が難しくなってきている問題である。つまり、それぞれ市場と国家が分担すれば、それぞれの欠点を補完できるような「公私分担」という問題状況が今日困難になってきていることが明白になっている。この領域の問題はかなり重層的に起こってきているために、公私のあいだの問題解決には、柔軟な制度の組み合わせによる対応が必要とされてきている。

 このような生活政策論の中心的な課題は、上記のように公私のあいだの調整問題であるが、このような公私問題では次のような重層的な問題が複合的に組み合わさって問題群を構成している。たとえば、「営利−非営利」をめぐる問題、あるいは「商品化−非商品化」をめぐる問題、「公式−非公式」をめぐる問題などが、重要な問題として浮かび上がってきている。なぜこれらの問題群が公私問題に加えて、ここでミックス状況を作り出しているのかといえば、それは「市場対国家」という問題だけではなく、もうひとつ「家計」という要素の重要性が今日認識されているからである。つまり、市場と国家という問題以外に、市場と家計、国家と家計などとの調整が、生活政策論として中心的な課題として指摘されてきている。この小論では、このような「公私ミックス」論の基礎原理について検討してみたい。

  

 1.生活領域での「公−私」問題

「公私分担」という言葉にかわって、「公私ミックス」という言葉が、近年の経済体制を表すときに使われるようになってきている。市場システムの限界、政府組織の非効率などが明らかになるに連れて、それぞれ単一の組織に任せられてきた領域に、無理が生ずるようになってきている。それでは、このような「公私ミックス」という現実はどのような事態なのか。また、その存在根拠はどのようなところにあるのか、なぜこのような言葉が使われるようになったのか、などの点について、この小論で考えてみたい。

公私ミックスという言葉が典型的に使用されているのは、1990年代の福祉経済体制を論じてすでにかなりの影響力を示してきている、エスピン-アンデルセンの著書である。そもそも、1980年代からヨーロッパで「福祉ミックス論」という政策論が、エスピン-アンデルセンに先行して行なわれてきていた。問題となるのは、なぜエスピン-アンデルセンをはじめとする論者たちがこの「ミックス状況」ということに注目したのかという点である。この小論で、彼らによって論じられていた点を省みながら、さらに彼らのモデルを詳細に検討してみようと考えている。

 まず当面のところ、なぜこのような「ミックス状況」という問題があらわれてくるのか、という動態的な問題状況に関心を集中させてみることにする。この小論では、便宜的にこのようなミックス状況があらわれてくる領域を「生活」という、ごくありふれた言葉で表現している。もちろん、生活とは何かという問題は大問題であって、今日に至るまで、この全体的な意味を完璧に画定した研究はない。したがって、この小論でこの問題について簡単に結論を出すわけにはいかないが、しかしこのようなミックス状況を追究するうちに、「生活」とはどのようなことなのかが、すなわち現代の生活の特徴はなにかが、ほのかに見通すことができれば幸甚であると考えている。

 また、ミックス状況を考える上で、なぜ「生活」と「政策」が関係するのかということにも注目しようと考えている。政策にはポリシー(policy)、すなわち一般的に政府が行う施策であるという公式的な定義がある。ところが、ポリシーの意味にはもう一つある。生活を考える系譜のなかには、政府が行う公式的な政策以外に、生活上の一般的な方策や手段という意味もある。つまり、生活のなかで人びとが生活を「経営」する部分が政策的に存在するのを見ることができる。生活について自らマネジメントをして、暗黙的にしろ意図的にしろ、政策を自分たちの生活のなかで作っていくという意味での、政策も存在するのも事実である。つまりは、生活のミックス状況が現実に存在するということである。

 このような「生活」を考えるモデルには、三つほどの潮流が存在していると解釈できる。第一に、もっとも社会学的な流れのなかにあるのは、ウェーバー・タイプであり、近代化に従って合理性を追求するというモデルである。これは他方で、マンハイムなどによって主張されるような方向で理論的な強化が図られた。つまり、非合理性というもう一つの近代化の側面が存在していることが指摘され、この両方のスパイラルな状況が加わって、近代生活というものが存在しうると考える、ひとつの系譜がある。日本では、生活構造論がこのタイプに属すると考えられる。パーソンズのAGIL図式を基本にして、ウェーバーを継承するが、そこに表層と深層という二分法を挿入して、非合理性を統合することで、「生活構造」という意味を出している。これは、ウェーバー・タイプの発展形態であると解釈できる。この結果、ウェーバー・タイプは、日本の生活モデルでも有効な類型の一角を築いてきている。

 エスピン-アンデルセンが特に注目するのが第二のタイプで、ポラニー・タイプと呼ぶことのできるものである。「労働力の商品化」ということをめぐって展開されていく近代生活のモデルである。生活のなかで労働市場が成立し、人びとが労働力として商品化されていく過程として、近代化が生ずるのに対して、エスピン-アンデルセンは「脱商品化」というベクトルがあると考えている。彼はこれを脱商品化軸というかたちで設定している。ここでは、たとえ近代的な労働市場が成立したとしても、そこでは労働力の商品化ということを完璧に押し進めることには無理があって、そこには商品化を弱めるようなベクトルがつねに対抗して存在するのだという議論がある。このような商品化あるいは脱商品化をめぐるモデルというのが第二の類型であると考える。

 これらに対して、もっとも問題にすべきであるのは、第三の問題である「公−私問題」、つまり公と私の間についての分担をめぐる生活モデルというものがあり得るということである。今日の生活政策ということを考えるうえでは、公私分担モデルというものが現実では問題になってくるのではないかと考えられる。このような問題関心のもとで、これを第三に分類した。後述でベックの議論を説明するが、あえていえばベックのモデルがこのタイプに入る。また、少し系統は異なるが、近代経済学の市場理論のなかから生まれた公共経済学の外部性の議論、これによって公と私が分担すべきであるという議論も、ここに入ってくるのではないかと考えられる。

 これでわかるように、三つの潮流に共通しているのは、それぞれの種類は異なるが、生活局面でのミックス状況が見られるという点である。それもすべて変動するなかで、このような問題状況があらわれているという点である。近代化という変動が生じるにしたがって、どのような生活の変化が起こってくるのかという問題意識に応じて立てられた生活モデルであることが、それぞれ強調されている。

 これらの三類型に対して、なぜエスピン-アンデルセンをとくにここで取り上げるのかといえば、これら三類型がそれぞれ別々に行ってきたことが、彼の中で複合的に、かつ重層的に一つの議論のなかに組み入れられているからである。エスピン-アンデルセンのモデルは、この点で、一つの統合モデルを提示しており、それが成功しているか否かここで検討しておく必要があると認められるからである。あとで見るように、前述の三つの潮流の考え方から、それぞれ「公式−非公式」軸、「営利−非営利」軸、そして「公−私」軸が対応して出てきていることがわかる。これらの軸の組み合わせによって構成されるモデルはミックス状況を記述しているモデルの典型例と考えられるために、そこに公私分担あるいは公私ミックスに関する一つの基礎論のようなものがそこに見られるのではないかと期待されるのである。

 現在のところ、公私分担論や公私ミックス論の基礎論について、原理的な議論が行われることは少ない。たとえば、現実に活動されているボランティア活動についてみても、その活動がどのような正統的な理由をもっていて、その活動自体にどのような存在理由があるのかということがなかなか基礎的なところでは明らかにされない。これらの発生は、現実が要請する必要性や個人の自発性に任されている。

また、前述の生活モデルのなかでも、原理的にみると二極分解した考え方が分離されたままで入っていたり、あるいは現実の動きがそのまま混沌として整理されないままになって入っていたりしているのが現状である。このような原理的な議論は現在のところごくわずかしか存在しない現状がある。以上のような現状を省みるために、ここで公私分担論あるいは公私ミックス論について、理論的見通しをつける道筋を探ってみたい。

 

2.生き方のモデルと近代の「個人化」過程

エスピン-アンデルセンのモデルを考察する前に、問題点が重なると考えられるドイツの社会学者ウーリッヒ・ベックのモデルをまず検討しておきたい。彼の著書『危険社会』で、その「リスク」というものをめぐって近代社会における個人のあり方を問題にしている。ベックのモデルは通常、社会に存在するリスクに対抗して「反省作用」が生ずるとする「環境モデル」として有名であるが、この『危険社会』のなかに一章を設けて、「生き方のモデル」という言葉を使って生活の動態を分析している。いかにして近代化という変動が生活のなかに取り入れられていくのかというモデルを、彼は提示している。それを図式にして、まとめたのが第1図である。

  

(第1図)生き方のモデル概念図

 

 第1図では、左から右に、過去から現在そして未来へ至る近代化の進展をあらわす時間軸を横軸にとっており、縦軸として下に「公」、上に「私」をとって、時間軸と公私の軸で四次元図式にしてある。ここで、個人の生き方は前近代から(第一図の左から)始まって徐々に個人化されていくという、近代モデルがベックによって考えられている。近代社会のなかで、封建的組織(共同体、封建的家族など)からの解放が進み、ベックのいう「個人化」が進展する。近代社会のなかで個人は封建的な社会、共同体や家族などの封建的紐帯のなかで温存されていた存在であったが、そこから解放されていく。これが第一段階のベックの個人化になる。

ところが、ベックが通常の合理性モデルと違う点は、そこで「反省化」という過程を導入する点である。このような近代化の過程では、人びとが労働市場に出たりあるいは消費生活に入ったりすると、個人が封建的な紐帯から分離されて、バラバラになっていくということになる。ここには近代社会の個人化に伴うリスクが発生するが、これに対して反省化が起こると考えられている。ここで反省作用(reflection)という、考え方がここで適用されることになる。この「個人化」の過程では、バラバラに分離された個人のなかに、近代社会のリスクに対する「反省」が生ずる可能性がある。

この反省化が起こることによって、それぞれに分離された個人が近代制度にまとめられていく契機を得ることになる。つまり、ここで個人を社会的な仕組みで支えるような制度化が起こって、バラバラで孤立した個人を支持するような、たとえば市場制度というものが確立されてくる。個人はバラバラであっても、市場のなかで個人が労働力を提供したり所得を得たり、あるいは消費生活を送ったりということが市場システムのなかに制度化されるにしたがって、個人化過程のなかでももう一段階高いレベルの個人化が行われるようになっていく。つまり、反省過程のなかで、個人が制度によって支えられる仕組みを確立していくことを経て、(たとえば、近代市場システムが高度に制度化され)さらに「個人化」が進展する。

ここに近代化モデルが「政策」というものを必要とする、一つの契機が存在する。ベックのモデルでは、不安定な個人を安定に保つために、いかにして制度的枠組みを形成するかが問われる。反省作用が生起するなかで、制度をデザインする政策課題が問われることになる。けれども、ベックのモデルでは、この過程はまた反省化を帯びて、制度化されてさらに高度な市場システムのなかに統合されていく。このように、個人化過程の繰り返しをどんどん行っていくことによって、近代化というものがより進んでいくのだというのが、ベックの生活モデルということになる。

ベックのモデルを好意的に解釈するならば、彼はこのような個人化が生ずる過程自体を批判的に受け止めていると考えられる。このような方向性が近代社会にはあるからリスクが生じて、たとえば環境問題が起こってしまう。個人化過程のなかで消費生活を謳歌することで、環境が悪化する。それに対する反省作用が起こって、その反省を制度化するというかたちで制度の改善が行われると考えるから、これは批判的に個人化ということを考えていることになる。

けれども、ベックに対する批判点はいくつかある。第一に、この点は図式にしてみてよくわかるように、ベックの考える「公−私」という機軸が不十分ではないかという点である。ここで反省作用が起こっても、それは個人過程での改善に限定され、市場制度というきわめて個人化過程に適合的なものしか考慮されないのではないかという批判が考えられる。この結果、個人の反省から社会の反省に導く経路が断たれてしまわれる可能性がある。第二に、これは後述のエスピン-アンデルセンのモデルでも問題になる点であるが、近代化にあらわれる生活過程について、公−私関係だけに限定してよいか、という批判を行うことができる。ここでは個人化と制度化という社会関係の変動を考えるときに、公−私関係だけに限定した軸が設定されていることが難点である。ベックの場合にはあまり見えてこないが,近代化という動きのなかには、公−私関係以外にもいくつかの機軸があり得る。

ここまで来ると、ベックに対する批判は二つに分かれる。一つは、個人化を強化するかたちでしか反省化が入っていないのではないかという批判である。それに対して、もう一つは個人化の反省作用以上にもう一ランク下まで深層にまで入って、つまり公共性というものまで考えた上で個人化というものを掣肘するようなシステムを考えているのだという第二の考え方がある。ここで私の解釈では、ベックの個人化過程というのは個人に影響を与えるレベルにとどまっているのではないかと考えられる。ベックの場合に近代の個人化過程をかえって強化する意味でしか、反省化という作用が入ってこない。反省化を経て制度化をすれば、より個人化を強化するという結果を生じさせており、ベックの反省化というのは個人化が進展する結果としてあらわれるように働いている。だから、反省化がすなわち個人化の強化であるという面が強いのではないかと考えられる。したがって、人びとに共通の公共性にまで到達して、底から省みるような、いわば社会的な反省化という考え方が希薄ではないかというのが、ベックに対する批判である。

ここで問題になるのは、「反省的近代化」という考え方についての評価である。よく知られているように、「反省」という概念はカントからヘーゲルを通じて成長していく考え方である。認識あるいは判断力などにおいて、最初の創造過程に対して反省過程があって、最終的に生活が組み立てられると考えられる。だから、生活とは何かという根本に、近代的な認識のなかで、古い体制に対して新しい行動をもって投企するという要素はたいへん強い。けれども同時に、人間が新しいことを企てて投企することに対して、もしそれが過度な行動に陥るならば、それに対しての反省がおこる。その反省作用によって、理性を獲得し自分の行動に反映させることによって、さらに次の新しい行動が起こってくる。このような反省作用についての一連の系譜が存在する。現代に至って、反省作用ということが個人レベルで終わっていて、社会のもっとも根本的なところにまで反省作用というものを組み込むことに失敗しているのではないかという批判が行われており、ベック批判についても重要な視点を提供している。

 

3.近代と脱商品化

前節では、公−私という機軸を近代化の縦軸に交差させたモデルを考えた。けれども、近代の動きの中ではもう一つの重要な変動要因が存在してきている。それは「公−私問題」と負けず劣らず重要なミックス状況を反映している事態である。この章では、前述のエスピン-アンデルセンが特に注目した「商品化−脱商品化」という機軸を考えてみたい。この機軸を巡っても、公−私問題と同様、近代化に対して混沌とした問題提起を残してきており、生活がどのようなものになるのかという点で、重要な視点を提供している。

ここで注目したい点は、脱商品化という特別な問題意識について、どのようにしてエスピン-アンデルセンがモデルに導入するに至ったのかということである。近代社会では、市場経済が進み、かつては商品として提供できなかったものでもさまざまな形態で商品化が進められる。この点では、商品流通の過程に止まらず、生産の過程においてもこのような傾向は進められている。財・サーヴィスだけでなく、労働力に至るまで、市場経済はすべてのものを商品化する傾向をもつ。この結果、労働力の在り方までも変化を余儀なくされる。

それに対して、エスピン-アンデルセンは、「商品化」という近代化の動きと背中合わせのかたちで、ほとんど対照的に「脱商品化」という過程も起こっていることを指摘する。脱商品化というのは、人びとの労働力商品化も含めて商品化というものにブレーキをかけるような傾向である。先進各国が社会保障の充実を図るなかで、市場経済が行き過ぎて金銭関係でのみ人間関係が結ばれる傾向を排除して、「市場に参加しないでも、生活を立てることができ、福祉を受けることができる」状態を目指すことが、「脱商品化」という傾向を生んできたと考えられている。たとえば、北欧型の福祉国家出現が典型例である。けれども、それ以外にも後述するように、このような脱商品化は市場が整ったところでも必要であるとする。したがって、保守主義的な方向、自由主義的な方向あるいは社会民主主義的な方向、それぞれの過程のなかでも脱商品化ということが用意される必要があった。 

(第2図)商品化と脱商品化

 

たとえば、保守主義のなかでは家族制度というものをなるべく温存しようとする傾向が見られるが、これは近代になって家族が解体されていく過程が、労働力が商品化される過程と重なっているからだと考える。それに対して、保守主義は各種の家族政策を策定することで、家族制度の温存を図ることを提案する。このことで、労働力の商品化に対峙するような仕組みを整えていくことになる。つまり、保守主義では家族政策を発動することで脱商品化を図ったことになる。

このような脱商品化が最高潮に達するのが社会民主主義的な方向においてである。福祉国家という形態をとって、人びとが労働力を提供しなくても、ある程度の賃金を保障され、生活を保障されるような非営利的な部分において生活ができるという生活モデルがあり得ることを、エスピン-アンデルセンは脱商品化という近代化の動きとして定着することを示した。

さらに、商品化ということが極度に到達した市場主義のなかでこそ、実は脱商品化という方向が同時進行のベクトルとして存在し得るのだということを主張することになる。第2図にしたがってすこし図式的な説明を加えるならば、図のなかで上へ向かう「商品化」という傾向と、そのちょうど真下へ向かう傾向を示す一本の線、この二つの合力が「脱商品化」という一本のベクトルになっているという説明に相当する。この結果、商品化が極度に進んだところでないと、脱商品化の進展もあらわれないというのが、エスピン-アンデルセンの指摘のなかでも重要なところではないかと考えられる。つまり、このようなところで、初めて「ミックス状況」が問題になるといえる。

ここでは商品化という動きは、主として労働力の商品化という意味から考えられているが、もっと一般的な近代化の動きから類推すれば、それは「営利」性ということとほぼ重なる傾向であると考えることができる。企業組織のもつ営利性が徐々にあらわになる過程で、つまり前近代から近代に移り変わっていくに従って、人びとが労働力として市場化されていくという過程を辿るからである。次第に、近代化が進めば進むほど、営利的な方向が顕著になって行くであろうというのが「商品化」のタイプである。もちろん、ここで「商品化−脱商品化」という傾向には歴史的な意味が相当含まれているが、「営利−非営利」という傾向は機能モデルのなかで生成された軸であるため、両者には多少のずれが存在する。

  

4.生活政策モデルとしての「福祉資本主義の三つのレジーム」

エスピン-アンデルセンは、福祉資本主義の三つのレジームという考えを1990年に提示する。従来までの生活モデルというのは通常は実証モデルで、どのような状況であれば生活ができるのかということのモデル化だったが、エスピン-アンデルセンの場合にはいわば政策モデルにもなっている。ここで実証モデルと規範モデルが同時に提示されている。

  エスピン-アンデルセンは、その著書『福祉資本主義の三つの世界』で、現代資本主義の可能性について三つのモデルを提供している。これは、表面的には資本主義モデルということになっているが、実際には福祉、つまりはWelfareの在り方を問題にしており、邦訳二冊目の『ポスト工業経済の社会的基礎』では、これらを福祉レジームの在り方と言い換えている。このことからも彼のモデルが単なる資本主義モデルではなく、もっと生活に近い領域における、福祉あるいは生活経済組織の問題と、政策タイプの問題を扱っていることがわかる。そして、さらに注目したいのは、前述のようにこのモデルは単に生活に関する実証モデルではなく、すでに政策モデルという指向性を帯びた性格を提起している点である。

それでは、生活周辺での経済組織の在り方と生活政策の在り方に関して、どこが違うのか、そのモデルの内容を見ていきたい。

                                                                                    

 

(第3図)規範的タイプ別の生活政策

まず第一に、彼が「保守主義的福祉レジーム」と呼ぶものをあげている。ここで中心的に働く原理は「家族」である。家族原理を中心として、生活が組織される。家族を中心とした生活が組織されるような生活のあり方、あるいは政策のあり方が編成される。したがってここでは、市場原理と国家原理による生活の組織は周辺的な在り方となる。ヨーロッパのなかでは、ドイツとイタリアにこのような傾向が強いと考えられている。ここには、エスピン-アンデルセン・モデルの優れている点とすこし誤解を生む点とが混在している。生活モデルのタイプと政策モデルのタイプと、さらに福祉国家のタイプとを全部同時に提示しているという特徴がある。この点については、同じヨーロッパでも、イタリアおよびフランスなどは保守主義的レジームに入れてもよいが、ドイツは必ずしも保守主義的レジームではなく、比較検討するならばコーポラティズムというレジームに入るのではないかと、富永健一著『社会変動の中の福祉国家』では指摘されている。

第二に、「自由主義的福祉レジーム」と呼ばれている体制が想定されている。アメリカがモデルであると想定されているこの体制では、市場原理が中心的な役割を持っていて、これを家族原理と国家原理が補完していることになる。

  第三に想定されているのは、「社会民主主義的レジーム」である。国家による福祉の供給が中心的な役割とされる。このため、家族や市場は補完的な役割となる。今日のヨーロッパでは、スウェーデンがこのタイプの典型例とされる。

エスピン-アンデルセンは、この三つのタイプが福祉資本主義の典型例であると考えている。この三つをどのように解釈すればよいのかということが問題になる。彼は上記のそれぞれ三つのタイプを家族、市場、国家という三つの原理的なシステムから導出してきている。実際には、彼がこのような原理的なシステムをどこから出してきたのかはよくわからない。おそらくエスピン-アンデルセンは、後述するエヴェルスのモデルからこの三つのモデルを解析してきているのではないかとも考えられる。ここでは一応、実証的にみれば、上記のある福祉国家のタイプと現実に合致しているから、つまりモデルと現実が一致しており、これでよいのではないかという経験的一般化が、彼の説についての存在理由となっている。けれども、この考えをすべての人が受け入れるかについては疑問が残る。

 以上で見てきた三つのレジームについて、ベック・モデルの「公私」軸とエスピン-アンデルセン・モデルの「脱商品化」軸によって配置し直すと、第3図になる。ここでは、「公-私」軸を縦軸にとり、「商品化-脱商品化」軸を横軸にとっている。このなかで、第一象限で、「私」の領分と「脱商品化」の領分に属するところが保守主義であり、家族を原理としている。これに対して、第二象限では、同じく「私」の領分に属するが、「商品化」の領分にも属するのが、自由主義タイプであると考えられる。市場を中心原理として、社会体制が形成されている。つまり、営利を追求することを動機付けのエンジンとしており、私的な権利を最大限尊重することを中心とする原理が働いている。これが自由主義的な市場社会ということになる。これらに対して、非営利で公共性を重視するような立場、これが社会民主主義である。このような形態で、四元図式のなかにうまくこれらの三つが入ってくると解釈できる。

四つの象限のうちで、一つだけタイプを与えられていないところがある。つまり、営利的であり、なおかつ公共性が確保されているような立場、これが前述の富永健一氏が注目している、コーポラティズムということになると考えられる。

このエスピン-アンデルセン・モデルに対して、いくつかの批判が考えられる。第一に、エスピン-アンデルセンでは、家族原理と市場原理などの諸原理は互いに対立することになっているが、実際にはこれらは両立できる可能性がある。彼の場合には、各国のタイプが三つにほぼ厳密に相当するという形になっているので、原理的に考えると市場原理と国家原理と家族原理は同レベルで相対立している取り扱いになっている。市場原理と国家原理は、ほぼ同レベルの生活領域の原理であるが、家族原理はかならずしもこれらと同レベルの原理ではない。したがって、これらを並列に並べて比較しても無意味ではないかと考えられる。実際には、同じ国のなかで家族原理と市場原理とは同時に並立することが可能であるし、国家原理と市場原理も同時に採用できる。このような政策はいくらでもある。上記の第3図のように解釈すれば、軸によって上と下、右と左というように、ある程度分けて考えることができると同時に、レベルが違う問題も重なりあっていることがわかるため、実際を反映するモデルになりうると考えられる。エスピン-アンデルセンのように原型としての三つのタイプを対立的に同列に並べて、これは三つのタイプだという言い方は、今日のように重層化している状況、あるいはここで解釈されたようなミックス状況と照らし合わせるとかなり問題がある。実際のところ、このように重層化している状況で、支配的な原理とはどのようなことを指すのかが問われている。

  第二に批判点としていえるのは、家族あるいは家計ということに限っていえば、モデルのなかで「個人」というものをどのように考えているのかが明確でない点である。当然、家族のなかの個人とも存在するし、市場に参加する個人というのも存在する。ところが、エスピン-アンデルセンの場合にはそれぞれ国家に対する個人、市場に対する個人、家族に対する個人などのようにすべてが個人というのはどこにでもつながり、なおかつ実はエスピン-アンデルセンは個人を問題にしていない。つまり、エスピン-アンデルセンのモデルは、大きな全体論として提出されているので、個人の問題が明示されないのが難点ではないかと考えられる。現代において、問題となるのは家族原理そのものではなく、家族からさらに個人が分離する、つまりベックが言うところの「個人化」が問題になると言える。

第三に、近代化のレベルの合理性と、近代以前の価値を含む合理性とは異なる、という点である。ここでベックの問題意識である「反省」あるいは「再帰性」をいかに問題とするのかがエスピン-アンデルセンでは不明確である。ベックのいう反省作用、あるいは再帰性という問題がエスピン-アンデルセンの場合には全くでてこない。結局、彼の場合には、タイプ分けのモデルに終始しているので、それぞれ静的な関係であって、どの国はどのようなタイプだという運命的なタイプ分けに従っている。それが動的にどのように展開していくのかという、ベックのようなダイナミックな考え方はほとんど存在しない。

けれども、多少エスピン-アンデルセンを弁護するならば、雇用政策のほうで脱商品化軸はダイナミックな過程を説明しているのかもしれない。サーヴィス雇用がどのように生ずるのかという問題意識があるが、脱商品化軸はこの点でサーヴィス産業の生成を考える説明軸として大変都合のよい性質がある。通常、生産性が高いものが出現するから、産業社会は発展すると考えられる。したがって最初に、商品化されていくのは生産性の高い製造業である。ところが、サーヴィス産業はかなり生産性の低い部門も含むにもかかわらず増えてきている。それはなぜなのかという説明で、一方では生産性の低い商品も市場化されていくという説明が行われるが、他方で脱商品化という説明が有効である。典型的なのは、政府のサーヴィス雇用が増えるという現象である。産業社会の進展のなかで、サーヴィス雇用が生産性の低いにもかかわらず増大するのは、脱商品化という動きがあるからだというもう一つの説明が成り立つことになる。しかし、このような議論には、いくつかの問題点があり、これらについては今後の課題として取り上げていきたい。

 

5.福祉ミックスの考え方

エスピン-アンデルセンが「福祉資本主義の三つの世界」という考え方を提出した同時期に、エヴェルスが「福祉ミックス」という言葉を使って、生活の場における中間組織の在り方を問題にしている。彼は、「福祉の三角形(welfare triangle)」という言葉で、原理が三つあることを主張する。ここで、福祉ミックスとは「それぞれの3つの非常に異なる社会制度(家計、市場、国家)が社会で総福祉に対して行う貢献」である。三つの原理があるにもかかわらず、それぞれは全体に対してミックスしたかたちで貢献するのだという議論をエスピン-アンデルセンのほんの少し前に主張することになる。この点で、エヴェルス・モデルの優れていると思われる点は、これまで主張されてきていた、公−私分担論という枠組みから、公私ミックス論への移行を模索している点である。

(第4図)ウェルフェア・トライアングル(福祉の三角形)

  

彼の考えは、第4図に表されている。ここに逆三角形を書いて、原理の間の関係を示している。彼が「福祉ミックスが重要だ」と考える理由は、家計それぞれが一つの分担をしたり、市場それぞれが個々の役割を果たしたり、あるいは国家が、政府がすべての福祉を行う、というエスピン-アンデルセンのモデルとは違っていて、それぞれ組み合わせで福祉の給付が行われる可能性があると考えられている点である。だから、市場と家計の間、あるいは市場と国家との間、あるいは家計と国家との間においても、福祉ミックスの貢献というものがありうるという議論を立てていく。

それでは、第4図のそれぞれ四角で表されたなかに何が入るのであろうか。これは、かなり経験的な当てはめになる。彼の考えにしたがえば、市場と家計の間に入るのが、自発的な仕事の創出、つまりSOHOと呼ばれているような小規模グループである。それから、家計と国家との間にあるのが。NPOなどのボランティア組織である。じつは、エヴェルス・モデルでは市場と国家の間に位置するものの概念がないが、強いて入れるならば、第三セクター、あるいは社会保険も含めた保険制度がここに位置すると考えられる。

問題なのは、この考え方がどの程度妥当性をもっているのかということである。おそらくエヴェルス・モデルに対して、エスピン-アンデルセン・モデルの持っている意味は、エヴェルス・モデルを現実の政策や国家の在り方と結び付け、間接的に実証している点である。実際にエスピン-アンデルセンの利用したのは、エヴェルス・モデルのなかでも市場と国家と家計の三つの原理という部分だけである。エスピン-アンデルセンの独自性は、これに政策モデルである自由主義、社会民主主義、保守主義という理念を重ね合わせた点と、さらに国家を分類して自由主義にアメリカを、社会民主主義にスウェーデンを、保守主義にイタリアを当てはめ、これが典型例だと示したことにある。

もっとも、このようなエヴェルス・モデルでは、単なる分類図式を示しただけで、静学的な図式から受ける印象が強く、ダイナミックな近代生活モデルを描くには適当でない、という判断がエスピン-アンデルセンにはあったのではないかと推察される。けれども、同時にエスピン-アンデルセンがこの福祉三角形から「自由主義、社会民主主義、保守主義」という政策モデルを導き出したときに、エヴェルス・モデルの持っていた利点をも排除してしまったのでないかとも考えられる。

ここでもっとも重要な点は、エヴェルスは「ミックス」論を展開したのに対して、エスピン-アンデルセンは「分担」論へ戻ってしまっているという点である。生活政策において、主義主張が異なれば、立案される政策も異なる、というエスピン-アンデルセンに対して、エヴェルスはすこし柔軟な思考を提案している。つまり、エヴェルスの優れている点は、福祉ミックスの存在理由をあげている点にある。各原理がそれぞれに分担して働くのではなくて、ミックス・モデルというものが必要であることを説いている点が重要である。彼は「ミックス」論を提案する理由をローズの言葉を借りて、次のように述べる。「家計、市場、国家が福祉(welfare)の供給者として不完全である限り、リソースの多様性の存在は有益でありうる。」 家計や市場や国家が福祉の供給者として不完全な場合に限って、このような状況が今日では通常の場合になっている現状がある。それぞれに不完全であるときに、市場、国家、家族の組み合わせ、つまりミックスというものの存在を模索することが有益である。ここで、福祉ミックスの存在理由は、いわゆる家計の失敗、市場の失敗、政府の失敗という事態にあるとする。どの制度も単独では有効な状況を提供できない場合に、ミックスの存在がいわば消極的に認められる。つまり、福祉ミックスの存在理由は、かなり消極的な理由である。積極的に何かミックスする存在理由があるわけではない。けれども、それぞれの供給体制というものが限界を持っている場合には、ミックス状況というものは正当化できるのだといえる。この結果、それぞれの社会制度間での組み合わせや結合が許されるとする。

このことは必ずしも多元主義を目指しているのではなく、実際の「生活の政策・経営」の在り方がこれらの考え方を相互に組み合わせており、混合的なひとつのタイプを提示していると考えることができる。一見すると、エヴェルス・モデルは多元主義的であって、どのような制度でもたくさん用意されていればそれで良いという考えに近いと見られるかもしれない。けれども、ここではそのような解釈は採らないことにする。それぞれのミックス状況に適合的な、一つのタイプが提示できる可能性もある。それぞれの原理の弱点を排除することで、ミックス状況のなかで消極的なチェックを行うことができ、最終的には最善のミックス状況を選びとることができるかもしれない。いわば進化論的な状況をこのモデルは利用することが可能である。これらの点で、多元主義とはすこし異なる解決方法を提示する可能性がある。

(第5図)三つの公私軸

 

このエヴェルス・モデルによって演繹的に考えると、先程から考えてきた機軸、つまり生活モデルを基本的にどういう原理で分類したらいいのか、という分類の機軸が明確にでてくる。第5図では、三本の矢印をエヴェルス・モデルに重ねたものを示しておいた。まず、公式−非公式(formal-informal)軸を縦に一本挿入している。どのような対比がここで問題になっているのかといえば、記号S(国家)とM(市場)をひとつの群と考え、それからH(家族)をひとつの群と考え、上下でひとつの対立が起こっている。上の方が公式的な制度、つまり市場や政府という近代のなかで確立された合理的な制度である。それに対して、家族が下の方に対立していて、これは対比上非公式的な制度である。このような対立軸が上と下の比較から、抽出されてくる。

これに対して、やや右に営利−非営利(profitnonprofit)軸を見ることができる。これは、記号SとHを一つの群にして、Mをひとつの群と考え、斜め上と斜め下の関係の対立軸である。市場というのは営利性のひとつの極にある。それに対して、政府および家計は非営利組織であるので、この対立軸が成立することになる。

さらに第三に、公−私(publicprivate)軸を解析することができる。記号MとHがひとつの群になって、Sがひとつの群になって、この両者の対立によって、この軸がでてくることになる。つまり、国家は公的なもので、公共性を表す象徴の位置を占める。それに対して、市場と家族というのは意味は異なるが、私的な部分を構成し、ここに公―私軸が抽出されることになる。

このようにして、エヴェルスの三角形図式から、三本の生活モデルの機軸がでてくるということがわかる。通常は、福祉について考える機軸というのは、それぞれ公か私か、営利か非営利かという独立した尺度で論じられる。このような議論が多いが、これをミックス状況のなかで、それぞれ三つの軸を混合的に重なるものとして議論できる図式を提示したのが、エヴェルスの功績であると考えられる。もっとも、エヴェルス自身は三本の軸がひとつの図式から抽出できることを認識していない。それは、彼の論文の図には不完全なものしか書き込まれていないことからわかる。原文での書き方を見ればわかるが、解析された軸は二本であり、それも交差した書き方になっておらず、外側にそれとなく示唆的に書いてあるにすぎない。とくに、営利―非営利軸が抜けていることが致命的な欠陥となっている。パブリック-プライベート軸とフォーマル-インフォーマル軸があっても、それは同じ方向に向いている。上と下の方向だけで、両方の軸がパラレルであるとエヴェルスは考えている。つまり、エヴェルスは公−私軸と、公式−非公式軸はほぼ同じものと考えている節がある。しかし、ここが重要なところだと思われるが、実際には位相の違った三本の軸が解析できて、いわゆる公−私問題というのは、それぞれ異なる軸ごとに、まさに「ミックス状況」を造り出していると考えることができる。もちろん、この点はまだ演繹的な推論の段階にすぎないので、これをどのように考えたらよいのかという意味の問題と、現実との比較を図るという帰納的な問題が残る。けれどもそのときには、このような三本の軸に従って、さまざまな現実の動きを解析できるのではないかと考えられる。

福祉ミックスの存在理由として、三つの「組織の失敗」というものが関係することを、エヴェルスは指摘している。このような想定を概念図に描いて考えてみたい。たとえば、第六図にしたがえば、まずライフサイクル上の不確実な状況への適応が失敗するような「家族の失敗」が生じた結果、それを補うために、生活のなかでどのような動きがでてくるのかが示されている。これは、公式化という方向をたどって、「家族の失敗」というリスクに対して制度化が行われ、これを補完するような動きがでてくるであろう。市場でサーヴィスを提供したり、政府が生活保障を提供したりすることが生ずることになる。つまり、自由主義的な動きが起こり、市場によって「家族の失敗」を掣肘する動きがでてくるし、もうひとつには国家によって社会民主主義的に家族の崩壊というものに対するさまざまな補助、あるいは社会保障が適用されていくことになる。

もしこの二つの動きが両極化するというのであれば、それは福祉分担体制が生ずることになる。従来、このような解釈が主流を占めてきたといえる。しかし、概念図の真中に四角で示したように、エヴェルスの主張を斟酌するならば、二極化と同時に、両方を折衷するような「家族の失敗」に対するミックス状況があらわれると解釈できる。現実のなかで、ここにはさまざまな具体的な方策や政策を当てはめて考えることができる。

(第6図)「家族の失敗」と公式化

 

(第7図)「市場の失敗」と脱商品化

 

また、第7図では、「市場の失敗」の結果、非営利化あるいは非商品化という動きが出てくることになる。失敗したことが選択からはずれることで、制度選択の進化的淘汰がすすむと考えられる。たとえば、外部性が市場のなかで起こったり、あるいは公共財供給が生じたりするような「市場の失敗」する場合、これらの市場の失敗を補う手段が、ひとつは政府によって、あるいは家族によって補うという方向が考えられる。そして、さらにこれは営利―非営利軸にしたがって問題状況があらわれてくることになるが、ここでも政府と家族の中間的な方策が模索される可能性がある。

(第8図)「政府の失敗」と私的化

同様にして、第8図は、公私軸に従ってあらわれてくるミックス状況を図示したものである。「政府の失敗」という事態が起こったときに、これに対して市場的な解決と家族的な解決と二つの方向がありうるし、さらにまたここでもミックス状況が問題となることが指摘できる。

このような三つの「失敗」現象は、それぞれの現実の局面で、あるいは異なる理論文脈のなかで発達してきているので、その起源はそれぞれ異なる。ところが、このように三つの「失敗」を横に並べてみると、この三つに共通する大きな意味が存在することに気づく。すなわち、それぞれの「失敗」が近代化機軸の極端な在り方の、いわば「反省作用」として、政策の立案が行なわれる場合が多いという点である。ここで推測できることは、「失敗」現象が共通に「反省作用」を社会的に引き起こす誘因を提供している点である。そして、このミックス状況のなかでは、立案された生活政策が社会的に淘汰されて、いわば社会進化論的に反省作用が働いていることを見ることができる。けれども、この点については、今後の具体的な事例研究を行なうなかで、詳細に明らかにしていきたい。

 

5.結論

最後に、この小論で明らかにできたことを整理して、今後の課題に結び付けたい。今回の小論のなかで第一に明らかにできた点は、生活モデルというものを考えるときに、少なくとも三つの機軸をめぐる変動というものが存在していて、重層的な構造を持っているということである。これらについては、エスピン-アンデルセンとエヴェルスを検討するなかで明らかにできた点である。現在、ほとんどの福祉政策で考えられているのは、公−私モデルだけで処理されるような政策が多い。このような現状から見て、生活を考えるモデルは、さまざまなレベルを同時に考えることが必要ではないかという示唆を行うことができる。あるいは、たとえそれぞれ個別に分けて考えたとしても最後にはそれを重ね合わせてみて、すべての機軸というものの整合性をみた上で、それぞれの政策インプリケーションというものを提出する方が有益ではないかと考えられる。

第二に、福祉の供給について分担したほうがいいのか、それともミックス論の方に妥当性があるのかという問題があることが理解できた。これは現実のケースによって対応は異なると考えられるが、これまでは分担論が比較的正当性を強く主張してきたように思われる。けれども、今日のミックス的な状況のもとでは、むしろミックス論にも正当性を主張する根拠があるように考えられる。たとえば、公共経済学では、明らかに公共財の理論などに見られるように分担論になっていて、このような財については市場で扱うことができないから公共財として定義していこうと考えられている。その場合、公共財の場合には政府が担当し、私的財については市場が担当するというように、完全に分担経済が指向されている。けれども、現実には中間レベルの組織が生まれ、この議論が抜けてしまう可能性が出てきている。この小論では、このようなエスピン-アンデルセンの弱点だった点について、エヴェルス・モデルに帰ることによって、これらの点をかなり明らかにすることができたと考えている。

けれども、このことは決して伝統的な社会制度である国家、企業、家族が消滅していくことを意味するものではない。「ミックス状況」であらわれる中間組織の多くは、これら伝統的な社会制度との相関的な関係のなかで、はじめて生成することのできるものが多い。それぞれが互いに機能や作用を補完し合っている。この三つの社会制度が存在するという状況のなかで、「ミックス状況」が生じていることは忘れることができない。

今後の課題としては、日本モデルあるいは日本の現実のなかで働いている制度モデルがこれらの分類軸あるいは整理のなかでどこに位置付けられるのかという問題がある。これについては、大沢真理氏の解釈あるいは富永健一氏の解釈などが知られているが、ここではもうすこし詳細な検討を必要とするために、今回はこれ以上踏み込んでいない。今後の課題としたい。また、この小論で抽出したいくつかの公私問題を考える機軸は、実際の労働生活や福祉生活や家族生活、情報生活、消費生活というような個別の生活モデルのなかで、生活とは何かを追求しながら確認していくような種類のものであると考えられる。したがって、今後具体的な方策や政策を取り上げて、たとえば家族生活であれば児童手当を考えるような、実際のミックス状況のなかで議論を行っていくことが重要であり、そのなかでそれぞれの政策の意味を定着させていきたいと考えている。

後記:この小論は、2001年度文部科学省科学研究費による補助を受けて作成された。共同研究者と「生活経済政策研究会」のメンバーの方々(アルファベット順掲載)、色川卓男(静岡大学)、影山摩子弥(横浜市立大学)、久木元真吾(家計経済研究所)、重川純子(埼玉大学)、永井暁子(家計経済研究所)、馬場康彦(日本福祉大学)、濱本知寿香(大東文化大学)、溝口由己(家計経済研究所)、御船美智子(お茶の水女子大学)の各氏からの有益なご意見に対して深謝いたす次第である。また、このような機会を与えてくださった関係者の方々に感謝申し上げたい。このなかで次の文献などを利用させていただいたが、この研究は4年間にわたるものであるため、これ以外の文献については、この研究が終了する段階で、詳細な文献リストを作成するつもりである。(U.ベック『危険社会』法政大学出版会:G.エスピン-アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』ミネルヴァ書房:G.エスピン-アンデルセン『ポスト工業経済の社会的基礎』渡辺雅男 渡辺景子訳 桜井書店:A. Evers, H. Wintersberger(Eds.), Shifts in the Welfare Mix, Westview

 

放送大学研究年報 第19号(2001pp.1-17 掲載

Journal of the University of the Air, No.19, 2001pp.1-17

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